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 外灯やネオンサインが、進次郎の手元や足元を明るく照らしている。ほんの数か月前までは、月や星がその役割を担っていた。なにより、寒くないのが衝撃的だ。もう10月も半ばだというのに、夜でもまだ半袖で過ごせるのだ。  「なるほどな……」長谷川が長野の夜空の星をしきりと珍しがり、妙に薄着だった理由が進次郎にも実感を伴って理解できた。東京の繁華街の夜というのは、落ち着きがない。息つく島もありやしない。しかし――何も(しがらみ)のない環境、その希薄や軽薄さがどんどん進次郎の心を軽くする。  香奈の妊娠を知った進次郎は、離婚を申し出ると同時に退職も願い出た。  取り乱した香奈の母親(女将)は、『あなたが原因でこうなったの。香奈を傷者にして捨てる気なの?』と見当違いに進次郎を責めた。父親(支配人)は、『不倫の子だなんて、外聞が悪すぎる。せめて進次郎の子ということにして欲しい』と、こちらも聞き捨てならない事を言い出した。なにより彼らの真の願いは、進次郎と香奈の婚姻関係の継続(・・・・・・・)だった。 『香奈ちゃんのお腹の子は、本当の両親が大切に育てるべきです』  進次郎の言葉を聞いた途端、香奈は急に泣き崩れ『有難う、進ちゃん……』と言い、続けて本音を漏らした。家のため(・・・・)に彼(お腹の子の父親)と別れて帰郷した。諦めきれなかった彼は一流企業の職を捨て、専門学校で学び直しこのホテルに就職してくれた。彼と結婚できないなら、せめて彼の子供が欲しかった。彼は、かつて進次郎の兄に振られて落ち込んでいた香奈を、献身的に慰めてくれたのだとも……。 『最初は、本当に進ちゃんのお嫁さんとして頑張ろうと思っていたの。でも、再会しちゃったらもう駄目だった……』 『うん、ごめん。全部、俺が悪いんだ。自分たち兄弟がこの家にお世話になっているから、っていう理由で結婚したんだから』  進次郎の言葉を受けて興奮した香奈が『パパッ、ママッ』と、強い視線で二人に何かを訴えようとすると、『香奈は黙ってなさいっ!』それを女将が一言(いちごん)()し、香奈が『進ちゃん……、ゴメン。本当に、ゴメンね――』と繰り返しながら泣き崩れた。  その後、最後まで首を縦に振らなかった香奈の両親を説き伏せ正式に香奈と離婚した進次郎は、兄の納骨を済ませた後、僅かばかりの退職金を手にホテルを去ることになった。  進次郎が立つ日、香奈と女将は妊婦検診とやらで早朝から松本市内の大きな病院に出かけてしまっていた。ばつが悪かったのだろう。 「長い間、大変お世話になりました。皆さん、お元気で――」  子供の頃から進次郎を見守ってくれた仲居達の号泣に胸が詰まる。調理場の仲間、職種違いの従業員達とは家族のように一緒に過ごしてきた。皆が進次郎の見送りに出てきた。  すると、フロントの奥から都会的な新人スタッフがすっと出てきて、進次郎の耳元で囁くように『僕は、謝りませんからね?』と言った。進次郎だって謝られては困る。かえって感謝しているくらいだ。『香奈ちゃんを、頼みます。お元気で』そう答え、進次郎は生まれて初めてこの土地を離れた。
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