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「翔、起きろ! 朝だぞ」
寒い。故郷では寒冷地仕様の住宅に住んでいた為、室内にいる分には寒さを感じることが殆どなかった。エアコンで暖をとるという経験が無い進次郎は、東京で過ごす冬の寒さに慣れない。
「んー。もう、ちょっと……」
「ほら、野球の練習に間に合わなくなるぞ」
「うわあー! 進にいちゃんの、ばかー! 寒いよー」
なかなか起きない小学4年生の翔は、高倉の一人息子だ。時間も押してきたので、掛け布団を引っ剥がして起床を促す。
「ほら! 下でお母さんがご飯作って待ってるぞ」
「……うん。進にいちゃん、おはよ」
「おはよう、翔。早く着替えて顔洗えよ」
故郷を後にした進次郎は、高倉を頼って上京した。現在は、高倉家の子供部屋に居候している。久し振りの家庭の温もりは、進次郎の遠い記憶を呼び覚まし郷愁を誘う。
「おはようございます」
「おはよう、進ちゃん。翔を起こしてくれて有難う」
高倉の妻は、当時、実家の旅館で働いていた仲居だった。進次郎が上京すると話したら、真っ先に『この家に住んでもらいましょう』と言ってくれたのが彼女だと高倉から聞いている。
「今日は休みだから、あの人はまだ寝てるのよ。ごめんね、進ちゃんも眠いでしょ?」
「いえ、俺は――」
「進にいちゃん、一緒に野球行こう!」
「ああ、行こう」
冬の空は高い。故郷も都会も空の高さは同じだけど、薄っすらと濁っているように感じるのは進次郎の気のせいだろうか。きっと東京の夜空に浮かぶ星が殆ど見えないから、そう感じるのかもしれない。
進次郎が上京し、【割烹 たかくら】で働き出してから一年近く経つ。そろそろ高倉家から出たほうが良いのかもしれないと思うこともあるが、妙に居心地が良くて長々と居座っている。
店主の高倉は、亡き父が全幅の信頼を寄せていた板前だけあり、何もかもが尊敬に値し学ぶことばかりだ。これまで進次郎が見様見真似で提供してきたホテルでの料理が、急に恥ずかしくなるほどに……。高倉の繊細な味付けや技術は、亡き父の料理を彷彿とさせる。厳しくも温かい高倉の下で働く日々は充実しており、あっという間に月日が流れた。
「進にいちゃん、本当に野球初めてなの?」
「初めてだぞ」
「ふ~ん……」
客の多くがサラリーマン層の店休日は、日曜日と祝祭日だ。
進次郎は小学生の頃から休みになると父親の働く姿を見て過ごしていた為、友達もいなければ、野球やサッカーなど特定のスポーツで遊んだことがなかった。
「監督とかコーチが、進にいちゃん『上手いね』って言ってたよ!」
「そうか? 子供の中に一人だけ大人がいるから、そう見えるんじゃないか? 翔の方が上手いと思うぞ」
正直、突き指などで怪我でもしたら仕事にならないだろう。しかし、子供に交じって野球の練習に参加する時間は、進次郎の心をこれまでになく解放してくれるのだ。
「お昼食べたら、今日も出掛けるの?」
「ああ。出掛ける」
「そっか。父さん、キャッチボール下手くそなんだよな。母さんはソフトやってたからスゲー上手いんだ。母さんとキャッチボールしよー!」
これも、いつもの遣り取りだ。高倉はプロの料理人として、指を大切にしている。息子が野球を始める際『練習の手伝いは、一切出来ない』と高倉が言うと、妻が『私がソフト経験者だから、任せて』と言ったと高倉が話していた。翔は、温かい両親に大切に育まれ幸せだ。
あの日――『逃げろッ! 早く、逃げろ』と怒鳴られ、高倉は後ろ髪を引かれる思いで煙と炎の中から必死に逃げ、一命を取り留めた。その時、高倉の妻は臨月を迎えていたのだ。火事の一週間後、無事に生まれてきた小さな翔の身体を抱きしめた高倉は、亡き父に感謝の言葉を紡ぎ続けながら慟哭したと、妻が進次郎に聞かせた。
「進ちゃんのご両親は、私たち家族の恩人なの。だから、進ちゃんは私たちにとって、大切な、大切な、家族なのよ……」
高倉の妻は、瞳を潤ませていた――。
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