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 ゆっくりと話ができるように、といった配慮からだったのだろう。石崎が進次郎を伴ったのは、客の出入りが少ないこじんまりとした古い喫茶店の、奥まった二人掛けのテーブル席だった。  話しが途切れたタイミングで「ここのナポリタンは絶品だから、一緒に食べよう」と言ってマスターを呼び、二つ注文した。注文を受けたマスターが奥に引っ込んでからしばらくすると、野菜を炒めるこうばしい香りに続いてケチャップの、何ともいえない甘酸っぱい香りが店内に充満した。 「美味そうな匂いだろ? 味も最高だぞ」 「楽しみです」 「ナポリタンの後に、もう一杯。マスター自慢のブレンドコーヒーを飲めば、完璧だ。付き合ってくれよ?」  石崎は気障に片目を瞑って小首を傾げたかと思うと、少年のような表情になった。そして、如何(いか)にここのナポリタンが絶品なのかを、滔々と語り出す。もう長谷川の話は終わったようだ。 「ご馳走様でした。凄く美味しかったです」  本当に美味だった。幼い頃、昼になると母が作ってくれた、スパゲッティーの味に似ている。懐かしい。 「そうだろう。美味いだろう。優太も一度連れてきたことがあるが、喜んでた。さてと、キミと優太に貸し(・・)ができた、かな。……僕の(がら)じゃないが。まあいいだろう。キミの天然ボケは、言葉の足りなさや素朴な性質からなんだろう。いい歳をして、純粋すぎるところも――」  「純粋培養された大人っていうのを、初めて見たよ」そう苦笑を漏らしながら、石崎が進次郎にメモを渡してきた。 「――これ、は……?」 「優太はキミを探すために、うちの会社(朝トラ)に戻って来た。約半年前にね――」  帰国後に約1年分のメモを見た長谷川は進次郎の訪問を知り、丸山グランドホテルに電話を掛け、進次郎が故郷を去ったことを知ったという。  『上高地ツアーの添乗をさせて欲しい』と戻ってきた長谷川は、かなり切羽詰まっていた――現地で進次郎の消息を確認したいと訴えた。石崎は『直ぐに辞めない』という条件で、バイトの再雇用をしたという。だから休みの日に訪問しても不在だったのだ。 「学生時代から、優太の添乗はファンがつくほど好評だった。朝トラ人事部としては、是非彼を正社員として迎えたかったんだ――」  大学を卒業する前年の秋に水を向けた途端、長谷川は『アルバイトを辞めたい』と言い出した。しかし、原因は正社員登用の話だけではなかったようだ。あれだけ希望していた上高地ツアーの仕事がつくと、『用事が出来ました』と断ってきたので理由を問い質すと、渋々といった調子で進次郎の事を話したという。 「まあ。相談に乗っているうちに、――ね?」  クスッと笑った石崎は、聞き上手で話し上手。そして、魅力的な表情をする大人の男だ。バイセクシャルという言葉も、石崎が丁寧に説明をしてくれた。  長谷川は生粋のゲイセクシャルだから、男だけに恋愛感情を持つが、バイセクシャルの石崎は男女共に持てるという――石崎曰く、進次郎の結婚生活における性生活を鑑みると「キミは、ゲイに近いバイかもね」ということだった。……そうなのだろうか?  食後に飲んだマスター自慢のブレンドコーヒーは、石崎が言う通り悔しいくらいに美味かった。  石崎が手渡してきたメモには、11桁の番号が書かれている。恐らく、長谷川の携帯番号だろう。  そのメモを失くさないように丁寧に折り畳んだ進次郎は、背負っていたバックパックの内ポケットのジッパーを慣れた手つきで開き、年季の入った紙袋を取り出し中の菓子箱にそっとそれを仕舞い込んだ。  ジッパーの引き手金具に付けているさるぼぼのキーホルダーが、カサリと音を立てて揺れた。 『キミもそうかもしれないが、優太も……。ああ見えて、家族に恵まれなかったようだ。もしも、キミが彼を苦しめるような存在になり得るとしたならば、僕は容赦なくキミを糾弾する。分かるかな? そのメモは、そのくらいの重みがあるってことだ。取り扱いには十分注意をするように――』  石崎の言葉が、重く進次郎の心に響く。  『死ぬために生きている』『太く短くが座右の銘』――長谷川にそう言わしめた環境に思いを馳せようとしても、進次郎は何も知らなかった。
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