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『お新香の小鉢がふたつ足りないから、至急宴会場に持ってきてー!』
この温泉郷に宿泊するツアーは、翌日、上高地もしくは飛騨高山方面等に移動する。上高地方面に移動する場合、早めに出発して現地を散策し、昼食を済ませた頃合いに集合して帰宅の途に就くと聞いている。かなりハードなスケジュールだとは思うが、客は楽しそうに早朝から支度を済ませ朝食会場にやってくる。従って、調理場スタッフや仲居達は、更に早い時間からその準備に追われるのだ。
「すみませんでした。小鉢持ってきました」
「進ちゃんが持ってきてくれたんだ、有難う。ちょっと時間が押してるから、調理場の方が大丈夫なら配膳を手伝ってくれないかな?」
「はい」
板前が配膳を手伝うのも日常茶飯事で、繁忙期などは職種間の垣根を越えて互いにフォローし合いその時間を乗り切る。このホテルには、実家の旅館が焼失した際に職を失った従業員達が複数雇い入れられていた。なので、幼少期から慣れ親しんだ従業員達は、大人になった進次郎のことを、今でも「進ちゃん」と親しみを込めて呼ぶ。彼女達は、老舗旅館で進次郎の両親から受け継いだおもてなしの精神を、ここでも遺憾無く発揮してくれているから、進次郎も気持ち良く仕事をさせてもらえている。
「おはようございます。朝トラですが、今日もお世話になります! 配膳中にすみませんが、短時間で終わらせますので席割りだけさせて貰っても良いですか?」
「どうぞどうぞ! 長谷川くん、夕べ眠れた?」
「はい、お蔭様で。ここの温泉、最高ですよ!」
仲居達は配膳の手をテキパキ動かしながら挨拶を交わしている。
席割りとは、数人単位のグループから一人での参加といった企画団体ツアー客の場合、予め一人参加の客を纏まった場所に配したり、グループ客同士が離れないように座席の数を数えて配置をする等……添乗員が早めにやってきて、列や数の確認をすることだ。なかには仲居達に無理難題を押し付けてきたり、配膳中の食事の近くでバサバサと埃を立てるような勢いで歩き回って席割りをする添乗員もいるようだが、朝トラは教育が行き届いていて、今日担当している長谷川だけでなく、どの添乗員も出入口付近で手帳に図を描きながら席を決めていると聞いたことがある。
「進ちゃん。いつもお料理を褒めてくれる添乗員さんって、この人よ」
仲居の一人が小声で話し掛けてきた。
「はあ……」
進次郎は、早く配膳を済ませて調理場に戻りたい衝動に駆られた。昨夜、そっと覗き見た長谷川は少し砕けた様子だったが、今朝はきちんとネクタイを締めたスーツ姿だ。癖のある黒髪もしっかりセットしてあり、昨夜以上にリア充ぶりが半端ない。やはり、別の世界の人間だと改めて思う。
「あれ? もしかして板前の進次郎さんですか?」
ブツブツと言いながら手帳と睨めっこしていた長谷川が、不意に顔を上げた。その瞬間、長谷川を凝視していた自分と目が合ってしまった。気まずい。
「はい。いつも当ホテルをご利用いただきまして、有難うございます……」
しどろもどろな自分の挨拶など気にする様子もなく、長谷川が話し出した。
「やっと会えた。ラッキー! はじめまして、朝顔トラベルの長谷川です。いやーッ! 進次郎さんの料理最高です! おれ……ヤベッ! 私、ここの食事大好きで、このホテルのコースがつくと嬉しくて嬉しくて、お客様にもバスの中で宣伝してるんです――」
爽やかな笑顔で一方的に話し出したかと思うと、「おっと、油売ってるとお客様がいらしちゃうな。すみません、お邪魔しました。進次郎さん、またゆっくり話をしましょう!」そう言いながら、再度、目視でお膳の数を数えて宴会場を後にした。
「相変わらず、バタバタとよく働くね! 他の添乗員さんなんて、のんびりしてるもんねー! お高い人もいるしね?」
そうこうしているうちに、40人分の朝食の準備が整う。
「朝顔トラベル御一行様。お食事の支度が整いましたので、どうぞお入りください」
仲居が声を掛けると、宴会場の外で客と雑談をしていた長谷川がそれを引き取り「お待たせいたしました。朝食の会場はこちらでございます。お席は私の方でご案内させて頂きます」丁寧な物腰で、手際よく客を会場に流し込む。仲間同士離れないように、一人客同士同じテーブルになるように――客の状況をしっかりと勘案した配席になっていた。調理場に戻るタイミングを逸してしまった進次郎も、仲居の人数が手薄になる時間帯ということもあり、その場に留まって茶碗にご飯を盛り付けるなどのサポートをすることにした。
「改めまして、おはようございます――」
客が全員が揃ったタイミングを見計らい、長谷川が控えめに移動して下座に立って挨拶を始めた。
「――昨夜はよく眠れましたでしょうか? いよいよ、お待ちかねの上高地散策でございます。皆様の日頃の行いの賜物でしょう! 今朝の天気予報では、本日の降雨確率はゼロでした。では今から約一時間半後の八時半に、各自チェックアウトをお済ませになって、フロント前に集合してください。時間厳守でお願いします。本日は大正池から河童橋までの約3.7キロを、約1時間ほど散策します。動きやすい服装とお履き物でお願いします」
必要な事柄を端的且つユーモラスに説明し終えると、長谷川も客と一緒に食事を始めた。そして、10分も経たないうちにきれいに膳を平らげ「ご馳走様でした。美味しかったです」と小声で進次郎に声を掛け、客に軽く挨拶してからその場を立ち去った。なるほど……添乗員の早食いと、仲居達が揶揄する食べっぷりとはこのことを指すのか。
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