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『お世話になっております。朝顔トラベルの長谷川と申します。本日、午後3時ごろ、バス一台43名様で到着します。夕食は予定通り午後6時でお願いします。部屋割りですが……あれ? もしかして、進次郎さん? 電話に出るの珍しいですね! ――では、伝達事項は以上になります。よろしくお願いいたします』
今日は地域のイベントがある。チェックアウトからチェックインまでの数時間、現場に最小限のスタッフを残して大方出払っている。調理場は仕込みがあるし、進次郎自身がイベント事にまったく興味がないので、例年留守番を買って出る。電話応対などをする機会がない進次郎が電話に出たのは、そんな理由からだ。
そろそろかと思っていた所に、今日最初の入れ込みが長谷川から入った。入れ込みとは、到着予定時刻や連絡事項等を旅行会社の添乗員からホテル側に電話してくることを指す業界用語だ。
今回、長谷川が予定よりかなり早く連絡してきたのは、部屋割りが事前に添乗員側に伝わっていなかったことが理由らしい。手元に客室配置図があるのだろう。進次郎が部屋番号を伝える度に、紙が擦れるような音が聞こえた。長谷川は必ず番号を復唱し、進次郎が『はい』と返事をするのを確認してからメモを取っている様子だった。
部屋番号を間違えると、収容可能人数と客の数に齟齬が出てしまう。そうなると、客だけでなくホテル側も迷惑を被る。なので、ここまで丁寧に確認をして貰えるのは大変に有難いことだと思った――これから到着までの間、確認した部屋番号に客を割り振るのだろう。
長谷川はひと通りの話を終えると、相変わらず脳天気な声で『今日も、美味い飯を楽しみにしていますね?』と言って電話を切った。
その間に自分から発した言葉といえば、挨拶のほか、部屋番号と『はい』、最後に『朝顔トラベルご一行様、バス一台で43名様午後三時頃到着予定、承知いたしました。お待ちしております』だけ。長谷川は口数の少ない進次郎を気にする様子など微塵もなかったが、次に電話応対をする機会があったらもう少し愛想よくするべきだと少し反省した。
「美味い飯……」そう呟いてから、『朝トラ バス一台 43名 15時着予定 部屋番伝達済み 夕食18時』と書いたメモを残し、進次郎は調理場に戻った。
上高地観光シーズンが続く夏休み期間中、長谷川は何度かツアー客を連れてやってきていた。仲居達が、「長谷川くん、今日も進ちゃんのお料理褒めてたよ」と知らせにくるので、調理場に引っ込んでいる進次郎にも長谷川が来ていることは逐一伝わってくる。
――あれ? 進ちゃん仕事終わったの? お疲れさまーッ!
数週間前のある晩。翌日の仕込みが終わった進次郎が従業員専用アパートに帰宅するため裏口を出て歩き出してしばらくすると、妙に馴れ馴れしい口調の長谷川に声を掛けられた。
「随分遅くまで働いてるんだねー」
「……ッ」
最初、彼があの長谷川だと気付くまでに少し時間がかかった。
よれよれのTシャツに半ズボン、洗ったばかりと思われる癖のある黒髪はクシャクシャでまだ湿っていて、首にはホテル備え付けのタオルをかけている。極めつけは、レンズの厚い黒縁眼鏡――仕事中だけコンタクトを使用しているのだという。左手に缶ビール、右手に火のついた煙草……その口調含め、オンとオフの大きな差に、進次郎は愕然とした。
「あ、進ちゃんも飲む?」
コンビニの袋から缶ビールを取り出し勧めてきたが、「俺、飲めないんで……」と断った。
「ふ~ん。料理作ってるから、煙草もNGだよね? 進ちゃん、真面目くん?」
雰囲気の違う長谷川は軽く酔っていて、進次郎の事を「進ちゃん」と呼ぶ。多分、仲居達の口調を真似ているのだろう。そのことに関しても、別に不快感を抱くことは無かった。それよりも、彼が発する自分とは対極の自由な空気感に惹かれ、少し話しをしてみたくなりその場に留まることにした。
「えーッ! 進ちゃん、いやいや! 進次郎さんって、おれより年上だったんだー。ヤベーッ」
歳を訊かれたので「24」と答えると、衝撃を受けたらしい長谷川が「すみません! おれ、21です。タメ口でごめんね?」と、肩をすぼめて謝った。引き続きタメ口だったような気はしたが……。それよりもなにより進次郎の方こそ長谷川のことを年上だと思ってたので、かなり驚いた。
現在大学生だという長谷川は、GWや長期休暇・土日祭日中心にアルバイトで添乗員をしているという。
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