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星が輝く夜だった。
長谷川は、缶ビールを飲み干し煙草を三本吸い終わるまでの間、ツアーで訪れた各地の美しい風景や通っている大学、住んでいる東京の話を聞かせてくれた。
それから――
「おれ、この仕事をするまで満天の星を見たことなかったんだ。キラキラな星が毎晩観られるって幸せだよな! それに、真夏なのに夜が涼しいだろ? こんなふうに外で過ごせるこの時間って、超贅沢だな」
長谷川はそんなことを言うが、ここは進次郎が生まれ育った土地だ。満天の星も、真夏の夜の涼しさも、山の景色も……美しく快適だと感じる以前に、当たり前の日常でしかない。
しかしその晩、長谷川の言葉に触発された進次郎は久しぶりに夜空に輝く星を振り仰いだ――すると、子供の頃に家族で流れ星を数え合った時の光景を思い出してしまった。一瞬、心の奥底がギュッと締め付けられたが、気付かぬ振りでその場を遣り過ごした。
その後も長谷川は、訪れた日の晩には必ずそこで過ごしていた。
進次郎も、長谷川が来ている日には仕事を早めに片付け合流している。いつの頃からだろう……。進次郎は、長谷川が運んでくる外の空気に触れる時間を待ち侘びるようになっていた。彼の言葉や各地で撮ったスマホ画像を通し……ひととき、実感を伴って世の中の広さを味わうことができる貴重な時間。
長谷川から見聞するそれらは、進次郎が如何に狭い世界で生きているのかを知らしめると共に、その環境に身を置くことしかできない自分と外界との唯一の接点になっていた。
「すみません、進次郎さん。もう片付けしている時間ですよね? お願いがあるのですが……」
ツアー客の夕食が済んだ小一時間後、長谷川が申し訳なさそうな表情で調理場にやってきた。
「夕食の時、あるお客様が食事に殆ど手を付けてなかったので少し心配で様子を訊ねに行ったら、胃痛で食べられなかったって仰るんです。別料金払っても良いと言うので、胃に優しいお粥かなにかを作っていただけませんか?」
このホテルは複数の旅行会社と提携して団体客を受け入れている。しかし、夕食時の客の様子を気に掛け追加の料理を頼んできたのは、長谷川が初めてだった。
「わかりました。部屋番号は?」
「2203号室です。けど無理を言ってお願いしていますので、運ぶくらいは私にさせて下さい」
仕事中は決して自分の事をおれと言わず、丁寧な言葉を操る長谷川のプロ意識が好ましい。
「出来上がるまで、ここで待たせてもらいます」
そう言うと、長谷川は廊下のところどころに配している籐のベンチに、トスンと座った。
「……長谷川さん、長谷川さん。起きて下さい」
あれから30分後にできあがった雑炊を盆に乗せ廊下に出ると、長谷川が壁に凭れ顔を真上に向けてクークー寝ていた。
「あっ! すみません、あれ!? 寝ちゃったか……。あの、できましたか? 持って行きます」
あまりにも気持ち良さそうに寝ていたので起こすのは可哀そうな気がしたが、軽く肩を揺すり声を掛けた。
「既に仲居がお届けしました。首、痛くなるから部屋に戻って休んで下さい」
「あ、痛ッ! すみません! 有り難うございました」
後ろ首に手をやり軽くさすった長谷川は、皺の寄ったワイシャツを着ているが相変わらず都会的な雰囲気を醸す――夜の、あの崩れ切った姿との大きなギャップに思わず笑いが漏れた。
「ん? 進次郎さん、何が面白いの?」
「いえ。すみません……」
「今夜も、星空の晩酌に付き合ってくれるよね?」
「……疲れてるんじゃ?」
「いま、ここでぐっすり眠ったから復活したし」
「片付けが済んだら行きます。疲れてたら早めに部屋に引き上げて……」
「んーッ! 風呂に入ってくるんで、またあとで!」
すっかりプライベートモードになった長谷川は、大きなあくびをしてからひらひらと手を振り客室の方へ歩き出した。それを見届けた進次郎も、急いで調理場に戻った。
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