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夜は、満天の星の下でかつての晩酌を再現をした。
朝靄の中の草が生い茂る散策路や、夏木立の間をゆっくりとどこまでも歩いた。時間が許す限り延々と――。
日中は観光客がひしめくルートを散策し、広く浅い知識で悪いとは思いつつも、進次郎だけに観光案内をした――長野県民なのに、初めて上高地に来たと言う。案外、東京の人間が東京タワーに行く機会が無いのと一緒なんだと思ったが、一方で実に勿体ないことだとも思う。
「これからも一緒に来ような」
「――ん。そうだな」
美しく澄んだ池の、ところどころに見える立ち枯れの木々が年々減ってきている理由や成り立ちを説明した。その幻想的な景色の向こうに見える穂高連峰や焼岳が美しいから、つい、かつての癖でスマホを取り出し撮っていると、進次郎がその画面を覗いてきた。すると、進次郎の髪がおれの耳を少しだけくすぐった。
「ごめん。当たった、か?」
おれがピクリと動いたのがバレたようだ。
「気にするな。少し髪が耳に当たっただけだ」
「そうか――」
自分の大好きな場所で穏やかな時間を静かに共有できる、そんな幸せに胸が圧し潰されそうになる。
内外の観光客が多い上高地は、歩きながらキュウリやトマトを齧る外国人や、目が合うと誰にでも気持ち良く挨拶する登山家の老若男女など、開放的で明るく自由な雰囲気に溢れている。
そのせいか進次郎は脱皮するように表情が明るくなり、不意に少年のように屈託の無い笑顔を向けられた時には、かなり驚いたがその十倍くらい嬉しかった。ささやかな変化をタイムリーに身近で感じ、その度に心が震えた。
気が付けば、同じように自分の中からも様々な蟠りが溶けていくような――そんな、不思議な感覚を身の内に感じていた。
「進次郎は、テーブルマナーが完璧なんだな」
「――ああ。両親が、食や礼に対して煩かった。実家の旅館では、定期的にマナー講師を呼んで従業員向けに研修を開いていたんだ。俺も、小さい頃から受けさせられてた……」
「そうか! 英才教育の賜物だな。幸せなことだと思うな」
「――ありがとう」
ホテルの食事は、人生で一番と思えるほど最高に美味かった。きっと進次郎と一緒だから倍増しに美味かったんだと思う。洗練された従業員の立ち居振る舞いにも、心が凪ぐ。
「進次郎、ありがとう。おれ、最高に幸せだよ」
「そうか……。良かった。俺も、そう言って貰えてやっと安心した」
ポーカーフェイスの裏には、たくさんの不安が詰まってたんだな。ごめん、そして本当にありがとう、進次郎。
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