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「先週、谷川岳紅葉ツアーの添乗に行ったんだけど、大変だった――お客様と一緒にロープウエイに乗って、話の流れから遠くの景色じゃなくて下を見ちゃったんだ! そうしたら、足が(すく)んじゃって……超ビビった。前から薄々気付いてたけど、おれって高所恐怖症かも……!?」 「わー。それって、添乗員としてどうなの?」 「うん。ヤバいと思う。でも添乗は本職じゃないから、騙し騙しやってるっていう感じかな?」 「そっかー。長谷川くんも、もうすぐ大学始まっちゃうもんねぇ。しばらく来なくなっちゃうんだよね?」  9月に入ると、それまで子供連れのファミリー層だった客層が友達同士や年齢の高い夫婦等へとシフトする。そして山の秋は都会より早く訪れるのだが、高を括った都会の旅人達が、こぞって夏の服装でやってくる時期でもある。大抵それらの旅人達は、朝晩の寒さに目を丸くして驚く。日中はそれなりに残暑が厳しいから余計に実感するのだろう。 「うーさむッ!」  長谷川は今夜もビール片手に煙草を吸い星空の晩酌(・・・・・)をしながら、進次郎が仕事を終えるのを待っていた。もう数えきれないほどこんな風に、晩のひとときを共に過ごしている。 「ホイッ! 今夜は冷えるからホットコーヒー買っといたけど……冷めちゃったかな?」 「有難う。寒そうだな、湯冷めするぞ。何か羽織るものは?」 「んー。さっきまで暑かったからさ、油断しちゃったかも。まあ、大丈夫だよ、耐えられないほどじゃねーし」 「……これを着てろ。ちょっと、臭いかもしれないが」  進次郎は、調理白衣の上に羽織っていたパーカーを脱いで長谷川に渡した。  一日中着用していた白衣の上に直接ひっかけたパーカーには食品のにおいが沁みついていそうだが、風邪をひくよりはマシだろう。 「いいよー。進ちゃんが寒いだろ?」 「俺は大丈夫だ。早く着てくれ」 「そっか、ありがと。……おー! 進ちゃんの温もりだー、あったかいなー!」  なんなんだ!? 俺の温もりって……。そんな反応には少し驚いたが、長谷川が喜んでる姿を見られて少し嬉しい。 「――そんでさあ谷川岳の散策が終わってからロープウェイで下に降りて、観光バスの待ち合わせ場所に行ったんだけど、いくら待ってもバスが来ないんだよ!」  夕食の片付けを手伝いながら、仲居達を相手に喋っていた仕事先での出来事の続きを始めたようだ――。豊富な引き出しを持つ長谷川は、いつでも興味深い話を聞かせてくれる。 「そんなことって、あっていいのか?」 「そりゃー、ダメでしょ」 「だよな……」  どうやら観光バスが回送中に事故に遭って運行不能になり、急きょ地元のバス会社からその日に空いていた路線バスの車両(・・・・・・・)を借り受け、観光バスのドライバーとガイドがそれに乗ってやってきという。 「どうしておれの添乗の時に! って、自分の不運を呪ったぜ」 「そのバスで、東京まで帰ったのか?」 「そうなんだよ! 路線バスって……、あ、つり革があるバスのことな? 座席が固いから、長距離の移動に向かないんだ。そんな日に限って、高速も渋滞してて……高齢のお客さんもいたから可哀そうだったなー。お客さんの人数分、箱詰め饅頭を買うように会社から指示があって、それを降車時に配ったんだけど。あれがなかったら、お客さんからはもっと酷いブーイングを受けてたと思うな……」  長谷川の話は、いつでも面白さと温かさがセットになっている。彼の人柄が滲み出ているようで、耳に心地好い。 「大変だったな」 「まあな。でも、喉元過ぎちゃえばどうってことないさ! 進ちゃんだって、仕事してればいろんなことがあるだろ?」 「まあ……」 「じゃあ、お互い様だ!」 「――長谷川、もう大学始まるんだろ?」 「うん。9月の後半には始まるから、このコースはあと来れても二回くらいかもな……」 「そうか……」 「おれが来なくなるの、寂しい?」  眼鏡のブリッジをわざとらしく中指で押し上げた長谷川は、進次郎の顔を下から覗き込むようにして訊いてきた。  度がきつそうな黒縁眼鏡をかけている長谷川の瞳は、レンズを通すと少し小さく見える。昼間とはまったくの別人だ。そんな長谷川も見慣れれば悪くない。 「……話を聞けなくなるのは、残念だ」 「それだけ?」 「……それ以上、なにがある?」 「ん? まあ、そうだよな……」  長谷川が来なくなったら……。多分、寂しくなる(・・・・・)だろう。それは(まぎ)れも無い本心だ。しかし、そんな感情を言葉にする術など、いまの進次郎は持ち合わせてない。  なぜなら、そんな感情を1ミリでも摂り込んでしまえば――その途端にこれまで必死に自身の中で折り合いをつけてきた、(すべ)ての感情が溢れ出すだろう。だから自分の精神を守るべく……防御センサーを自然に作動させたのだ。
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