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「昨日まで、寸又峡温泉に行ってたんだ」
「……スマタキョウ温泉? それって、どこにあるんだ?」
「静岡。途中から、SLに乗って行くんだ――」
相変わらず忙しそうな長谷川の夏休みも明日で終わりだという。今日は土曜日で長谷川がここに宿泊するのは明日の出発で最後になり、来年のゴールデンウイーク辺りから再び訪れるかもしれないという話だ。
「SLって、蒸気機関車だろう?」
「そうなんだよ! 石炭を燃やして走らせてるから、煙がモクモクと凄いんだぞ。トンネル抜けるときには窓を閉めるようにって会社からのマニュアルに書いてあったけど、正解って感じだったぜ」
「昔は、石炭の煙で顔が真っ黒になったって聞いたことがある」
「最近じゃ、煙でむせたりしないようにっていう配慮みたいだけどな」
蒸気機関車といえば、子供の頃に買ってもらったキャラクターのプラレールを思い出す――正面が顔になっている青い機関車の模型を、線路の上で走らせて遊んだ。男児はある程度成長すると、その過程の中で戦隊モノもしくは乗り物系に興味を持つというが、ご多聞に漏れず進次郎は乗り物に興味を持った。
誕生日やクリスマスになると親にねだって買ってもらい、兄弟で興奮して遊んだ時のことを思い出す。
「そんでさ、寸又峡の旅館に泊まった晩に大変なことがあったんだ。さあ寝ようかな? って布団に入ろうとしたら、部屋の外が急に騒がしくなって。無視してたらフロントから内線電話が入って――」
長谷川が添乗していたツアー客の中に、高齢者が2カップルで参加していた。そのうちの一人が自分の部屋に戻れず、あらゆる客室のドアを叩いた。最初から、なんだか様子が変だと感じていた客だ。どうやら認知症? が始まったばかりだったらしい。結局、帰るまでずっと気になり、下車箇所でのフリータイムやトイレにもさり気なく付き添ったという。
「最後まで気が抜けなかったんだぜ! だってよ、じーちゃん一人だけどっかに置いてきたら事件だろ!? マジで、参ったよ――!」
しかし進次郎の目に映る長谷川は、まったくと言っていいほど参った顔をしていない。面白おかしく喋っているが、真摯に対応したであろうことは容易に想像がついた。
しばらくの間、こんな長谷川の人柄が偲ばれるエピソードや訪れたことのない各観光地の話が聞けなくなるのは残念だ。この地を離れたことがない進次郎にとって、長谷川が話してくれる内容は全て興味深い。また、それらを通して疑似的に様々な体験をさせてもらっていたのだと思い至る。
冬の間、この温泉郷一帯の客足はかなり減る。
しかし数年前に焼失した実家の旅館だけは、客足が遠のくことが無かった。何が違うのか――進次郎の分析では、旅行会社を通した団体客を中心に受け入れるか、その宿を気に入って利用する個人客を多く持っているかの違いだと思っている。進次郎の実家は、女将をしていた母親の徹底したおもてなしの接遇と板前だった父親の出す素晴らしい料理、両方にファンがいた。
しかし近年ではシーズンオフでも、旅行会社が企画する温泉と郷土料理をパックにしたツアーが断続的に団体客を連れてきてくれる。こういったツアーには添乗員がつかないので、冬休みの時期でも長谷川はやってこない。冬の間は、南の地域の観光ツアーに行くことが多いと言っていたような気がする。
――進次郎は、悩んでいた。
昨夜、支配人である伯父に呼び出された。一人娘との縁談を持ち掛けられたのだ。東京の大学を卒業した後、5年間東京で働いていた。この春帰郷し、女将修行を始めて8ヶ月になる従姉だ。気が進まない……。
なにより従姉は進次郎の兄の同級生で、優秀な兄を慕って同じ大学に進学した。ことあるごとに、板前を希望する進次郎を馬鹿にしてきた彼女の事は子供の頃から苦手だった。
しかし、彼女の態度はあの頃とは随分違う。確かに……自分の面差しが兄に似てきている自覚はある。だからといって、掌を返すようにアプローチを仕掛けられていることに進次郎は嫌悪感を抱いていた。
「進次郎のお陰で美味い料理を出すホテルとして、業界でもここの知名度が上がってきている。どうだろうか。娘と一緒になって、このホテルを将来引き継いで欲しいのだが――」
「支配人。すみません……まだ、結婚なんて考えられません――」
「なにを言っているんだ。進次郎は24だろう? 香奈はもう27だ。生まれてくる子供の事を考えたら、互いに適齢期なんじゃないか?」
進次郎たちは、この家族にとって居候だ。したがって、伯父の申し出を無下に断ることができる立場にはない。
進次郎は優鬱な気持ちで「……すみません。考えさせてください……」と、その場を曖昧に収めた。
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