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「おやっさん。実は――」  少し早めに家を出た進次郎は、出勤する前に寄り道をして農家へ出かけ、『どうせ捨てるものだから』という野菜を譲り受けてきた。野球の遠征先で見つけた野菜の畑は、東京都下の小学校周辺に広がる閑静な場所にあった。  それは、大きく育ちきる前のネギ坊主。図書館で調べた正式名称は、聚繖(しゅうさん)花序(かじょ)といい、小さな花が集まって1つの花を形成するという意味だ。 紫陽花がその代表だと書いてあり、納得した。確かに良く似ている。 「これを、季節の天ぷらに使ってみたいのですが……」  この店で働き始め約一年半が経ち、少しずつではあるが進次郎も仕込み以外の仕事を任せて貰えるようになった。近頃では、揚げ物が進次郎の担当になっている。  進次郎がネギ坊主を手に取って高倉に差し出すと、それを受け取り鼻先に寄せ「長ネギの花だな。ネギ坊主か――進はこういう野菜もホテルで扱ってたのか?」と怪訝な顔で訊いてきた。確かに大勢の客を受け入れるホテルにおいて、希少な野菜を使う機会は皆無だ。 「いえ。以前、ホテルのお客様から『ネギ坊主の天ぷらが食べてみたい』という話しがあったので、今日農家に行って分けてもらってきました。丁度、今が旬だと思ったので……」  黙って進次郎の話を聞いていた高倉が、畳みかける。 「進、もう一度訊くぞ。この食材(ネギ坊主)を、自分で調理したことがあるのか?」  話しをしているうちに、高倉が意図することを明確に理解した進次郎の脈は急速にドクドクと速くなった。熱を持った顔も、羞恥で赤く染まっているだろう。 「……ない、です」 「そうか。じゃあ訊くが。進は、自分が一度も扱ったことの無い食材を料理して、お客さんから金を頂くつもりなのか?」  穏やかな口調だからこそ、心に響いた。浅はかで傲慢な自分を思い知らされる――この店は高倉が何年もかけて築き上げ、信用を積み重ねてきた城だというのに。 「申し訳ありません。そんな、失礼なことできません」  腰を深々と折り曲げ頭を下げた進次郎は、自分の浅慮を恥じた。考えてみれば、高倉の言う通りだ。改めて高倉に謝罪する進次郎に「どうだ? 今夜来て下さったお客様限定で、試食品(・・・)として無料で振舞い感想を聞いてみたらいいんじゃないか?」と思ってもみない提案をしてくれた。  進次郎は複雑な気持ちを残したまま、頭を勢いよく起こし「有難うございます! やらせて下さい」と心から願い出た。 「滅多に手に入らない食材だ。捨てるわけにもいかないだろう――」 「有難うございます。今日は、俺……。一生懸命、勉強させていただきます」 「おいおい。普通に働いてくれよ?」 「……勿論です!」 「ヨシ。じゃあ、仕込みを始めるぞ」 「はいっ」  高倉から教わることは、料理のノウハウだけではない。料理が美味いのは当たり前。その料理を演出するには、食材との向き合い方、衛生面、食器や調度品、そしてこころ(・・・)――人としての在り方。当たり前だからこそ、最大限に気を遣わなければ抜けてしまう透明な部分を、高倉は決しておざなりにしない。  ――かつて長谷川が、添乗先で食べて『甘みがあって美味かった』『いつか天ぷらで食べてみたい』と話していたネギ坊主。自分でも女々しいと思うが、そんなささやかな思い出にさえも縋っていたかったのかもしれない。  会いたい。会いたい、……長谷川。
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