神社の蝶

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私の友人、Hさんはとても信心深い人だ。 特に決まった宗教はないのだが、旅先はもちろん、普段買い物の途中でも神社が目に入ると必ず参拝する。 彼女がそうなったのは、ご両親がとても信心深い真面目な人たちで、それと同じことをしてきたのを、彼女は幼い頃からずっと見てきたからだ。 7月のある日のこと、彼女は自宅近くのアーケードのある商店街に入って、ぶらぶら歩いていた。 その商店街の中ほどには、古い立派な神社があり、本殿は国の重要文化財にも指定されている。 商店街に買い物に行くと、急ぎでもない限り、彼女は拝みに立ち寄るのが習慣だった。 いつもはその商店街ではなく、駅前の大きなスーパーに行くことが多いのだが、たまにこの商店街に来ると、彼女はほっとする。子供の頃から全く変わらない店舗、優しい雰囲気……。彼女にとっては、時代が変わっても、変わらないでいてほしい街並みのひとつであった。 今日ももちろん、彼女は神社にお詣りした。 お(やしろ)は本殿以外にもいくつかあり、普段は本殿の前に位置する拝殿だけしか拝まないのだが、今日は本殿近くにある小さな(ほこら)のようなお社もお詣りした。 何故そうしたかというと、祠の前、少し湿った黒い土の上に、アオスジアゲハの死骸が落ちていたからだ。 黒く縁取りされた瑠璃色の羽は、遺影が飾られた額縁を思わせ、その鮮やかな青色が、かえって命のはかなさを強調していた。 その蝶の死骸を見た途端、この祠にも参拝しなくてはならない、という気にさせられた。 小さなお社は、他とは違っていつも扉が半分閉じられ、御簾(みす)がかかっているため、中の構造はわからない。彼女は首を伸ばし、御簾の隙間から中を覗き込んでみた。真っ暗で何も見えない。 どこからか「カン!」と乾いた音がして何かの気配を感じた。びっくりして首を引っ込めた彼女は、不思議に思いつつも、扉の内側手前に大きな石の賽銭箱があったので、10円玉を入れてみた。 「カチン」 乾いた音がして、その音から、賽銭箱は空っぽに近い状態と思われる。 その時、御簾の奥からひんやりとした冷気のようなものが流れて来て、彼女はぞくっとした。両腕には鳥肌が立っている。夏だというのに寒気がした。 彼女はその場を離れ、拝殿のほうへ移動した。その時には寒気もおさまり、あのひんやりした空気は何だったのか不思議に思う。 神社の宮司さんに、あの小さな祠の主神(しゅしん)は誰なのか尋ねようと思ったが、いつもなら境内の何処かにいるはずの宮司さんが見つからない。ここは立派な由緒ある神社なので、ご祈祷依頼も多く、1年365日、正装している宮司さんがどこかにいらっしゃるのだ。 しかし、今日はその姿が見えないので、仕方なく神社を出て、買い物を済ませて家に帰った。 帰るや否や、彼女はネットでさっきの怪現象を調べてみた。 神社で寒気を感じるのは、どうやらあまり良いサインとは言えないようで、彼女は嫌な気分になった。しかし、悪寒というほどでなく、一瞬お社の冷たい澄んだ空気を感じたのだから、さほど悪いことではない、と思うことにした。不思議な音や気配を感じたのは、神様が近くにいらしたからだ、といいように解釈した。 そんなことがあってしばらくして、Hさんのお母さんが事故で入院してしまった。自宅の階段を踏み外し、何段か落ちて頭を強く打ったのだ。 その時はなんともなかったが、何時間か後に突然意識を失い、救急車で運ばれた。 急性硬膜外血腫という診断が下り、手術も必要かもしれないので、しばらく経過観察で入院した。しかしとてもラッキーなことに、手術せずとも血腫は自然消失したのだ。 お母さんは予想外に早く退院できたが、通院はしばらく必要とのことだった。 今やHさんは、あの時冷気が襲ってきたのは、神様ではなく、何か良くない低級霊が姿を現したのかもしれない、と疑うようになった。母が自分の代わりに(たた)られたのではないか、と心配しているのだ。 そこまで話を聞いた私は逆に、『何か良くないことがある、でも大ごとにはしないよ』と、神様が教えてくれようとしたのではないか? と考えた。 Hさんはしばらく神社仏閣にお参りするのは控えることにした。 しかし、お母さんは、Hさんからその話を聞いて、「怪我したのがあんたじゃなくてよかったわ、神様のおかげね」と言った。 神様は、親の愛に姿を変えて守ってくれる時があるのかもしれない。
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