第一章 日常

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第一章 日常

第一章 日常  二〇〇八年四月。焼けたゴムの匂いと共に、ダイビングスーツを身にまとった男が簡素な扉から出てくる。一切濡れてはいない。辺りを見渡し時計を確認する。扉の前に落ちている手のひらサイズの装置を拾い上げ、手に持っていた同型の装置とくっつけ扉に貼り付ける。この部屋ですることを全て終え、男は部屋をあとにした。  モニターがいくつも設置された部屋。ドーナツとコーヒーを携えた男が画面を眺めている。施設の状態を写す画面が五つにテレビ番組用が一つ。男はその部屋で何時間も施設の確認作業を続けた。  三ヶ月後。薄暗い洞窟の中、男が一人でスポーツ中継を見ている。傍らには焼きたてのピザと二年前に製造されたソーダのボトルが置かれている。これが男の観戦スタイルだった。あたりには生活に必要な物資や娯楽が積み上げられている。男は普段ドラマや映画を中心に暇を潰していた。ここ最近の流行なのか、ゾンビや超能力者が登場する作品が多い。更には、以前は無かったコンピュータが机にお置かれている。男は映像作品を見終わった後、インターネット上で感想の投稿を始めた。 -アップル:これって結局、主人公が過去を変えても存在し続けてるから、タイムトラベルじゃなくてパラレルワールドにテレポートしたってだけだよね? -ビーバー:そうだろね。 -アップル:パラドックスものよりはマシか。 -ビーバー:まあ、タイムトラベルものはSFっていうよりファンタジーだからね、あと似たようなのだと…  お互い相手が誰かも知らない中、唯一の共通話題に沿って延々と会話だけが続いていく。 -ビーバー:もし未来へいけるとしたら何したい? -アップル:未来?過去じゃなくて? -ビーバー:そう、未来。過去へのタイムトラベルは現実にないけど、未来行きはあるわけじゃない、光の速さで運動し続ければ周りよりもゆっくりと時間を進めるって言うだろ、夢が持てるとしたら未来行きだけじゃん。 -アップル:未来ねえ、過去だったら断然白亜紀なんだけどな。恐竜食べてみたい。未来ねえ… -ビーバー:興味ない? -アップル:僕はこの時代にもついていけていないからなあ、未来へなんて行ってもきっと楽しめないよ。正直普通に年をとるのも怖いよ。 -ビーバー:夢がないなあ、今持ってる映画のコレクションを未来で売って遊び歩けばいいじゃないか。 -アップル:その手があったか。あ、でも売りたくないなあ。  二ヶ月前に大量の買い物を済ませて以降、この男は洞窟から出ることもなくずっとこんな生活をしていた。 「ジュノス!飯だぞ!」  男が暗闇へ向かって叫んだ。すると横穴から黒い毛玉が突進してくる。猫だった。 「ほら、さっさと食え」  買い物を終えて洞窟へと戻る際、物資に紛れ込んで猫が侵入していたのだった。洞窟内の倉庫へ物資を移している最中に発覚した。不法占拠しているこの地下基地に侵入者が現れた場合、一旦全てを処分する覚悟でいた男も「猫ならまあいいか」と特に考えることもなく受け入れてしまった。それ以来猫用の部屋やベッド、トイレ、おでかけ用のケージ制作に没頭していた。 「次に外へ出た時にはこいつの餌も買わなきゃな」  既に外へ放り出す気はなくなっていた。  猫の食事が終わると男は食器の片付けを行い、テレビを消して書斎へと向かう。椅子に座り葉巻をカットし火を着ける。一、二度煙をふかしてから意を決したように机と正対する。そして予め机に置かれていた紙と鉛筆を自分の前に置き、参考書らしきものを開く。先程までとはまるで別人のように黙々と勉強を始めた。するとそこにジュノスがやってきて紙の上に座り込んでしまう。 「おい、邪魔しないでくれ。これは今日中に終わらせる予定なんだ、あとでちゃんと遊んでやるから」  男が手で払いのける素振りを見せると、それを見た猫は足場を蹴って机を降りる。その弾みで男が開いていた参考書が床に落ちてしまう。参考書には「六年生の社会科」と書かれていた。  ※  男が鏡の前で衣服や髪型をチェックしている。何年も切らずにいた髪の毛は後ろで縛られ、髭ものび放題だった。服装もよれたTシャツに短パン姿で、日焼けもしていた。 「今回はこんなものかな。おい、ジュノス、地上に出るぞ。やることは山ほどあるんだからな、急いでくれ。さあ、ケージに入れ」  ジュノスが渋々ケージの中に入ると男は蓋をして鍵を回す。すると先程まで覗き窓の中に見えていたジュノスの姿が見えなくなり、代わりに鏡面が現れる。それを確認し男は潜水艇の発着場へと向かった。  正式に所有している小さな無人島の入江で、男が潜水艇からプレジャーボートへと乗り換える。貧相な通信設備や、発電設備、侵入者対策として設置した自爆ゲート等の確認を済ませ港を目指した。船の停泊所に着くと管理人に金を払い手続きをする。タクシーを呼び行き先を告げ、海沿いに一時間も走った頃、「NTショッピング 第二倉庫」と書かれた建物に到着した。ここは男が作ったペーパーカンパニー所有の倉庫だった。中にはトラックと燃料が入ったドラム缶だけが残されている。それを確認すると料金を払ってタクシーを返した。  男は予定が書かれたメモと現金を確認する。問題がないことを確認するとケージを開きジュノスを外へ出す。 「ほら、お前の故郷だぞ。餌は一応置いておくが、一週間後ここに居なかったら置いて行くからな。ここはもうすぐ引き払うんだ」  男はトラックに乗り四ヶ月ぶりの物資調達へと向かった。  一週間後。倉庫の中に次々とコンテナが運ばれていく。空っぽだった倉庫の半分程が埋まってしまった。食料品、医薬品、AV機器、猫の餌、服、酒、タバコ、葉巻、トレーニング機材、etc。 「おまえ、まだここにいたのか?いいんだぞ残っても。しょうがないな」  三時間後。男が倉庫の中でハンバーガーをかじりながら品物を眺めている。不要な梱包を取り除き、物資の体積が大幅に減っていた。コンテナの確認を終えた後猫をケージに入れると、貴重品を自分のトラックに積み込み次のトラックが来るのを待った。 「じゃあ、これを頼む。話は船長にしてあるから、ちゃんと客に届けてくれよな」  コンテナを載せた運送会社のトラックが去っていく。倉庫には男と一台のトラックが残された。男は倉庫の中を眺めた後、施錠もせずに立ち去っていった。  ※ 「ペパロニとアンチョビ、チーズ、LLサイズで二枚ずつね」  男がファストフード店めぐりをしている。トラックの空きスペースに載せられるだけ買い込むつもりのようだ。 「ピザにハンバーガー、タコス、ホットドッグ、ケバブ、中華、寿司、ドーナツ、と。こんなもんでいいだろう」  買い物を終えると、男は人通りの多い場所や公園を散策した。昔からよく見るありきたりな光景で、時代とともに少しづつ変化はあったものの、何一つ感慨を覚えない景色だった。買ったばかりのスマートフォンを使って写真を撮っていた時、これから大きく育ちそうな木に穴が開いているのを見つけた。ふと、以前何かの映画で聞いた手品師のトリックが頭をよぎった。男はニヤニヤしながらプラスチック製のトランプを二組買ってきて、スペードのエース一枚をその穴の中に放り込んだ。新品のままの一組を残して封を切った方は公園の屑入れに捨てた。ついでにポケットの中を探り、キャバレーのマッチやデートクラブのチラシも捨てていった。  買い出し最終日、男は床屋へ行きざっくりと髪を短くした。髭も剃った。そしてシャワーを浴び新品のシャツに着替えた。支度を済ませ安宿を出ると、来た時とは別の船着場へ向かい、以前よりも小さい新品のボートへと乗り込み出発した。  翌日。無人島で物資を受け取った男が去っていく船の姿を眺めている。水平線に何も居なくなるとトラックが動き出し、岸壁に囲まれた入江へと向かった。男が全ての物資を潜水艇に積み終えた頃、辺りはすっかり暗くなっていた。 「これで最低限必要なものは揃った。ジュノス、覚悟はいいか。もう後戻りはできないぞ。魔法のカードもあと何回使えるかわからないからな」  猫は毛づくろいをしている。 「最後のチャンスだ、残ってもいいんだぞ。本当に後悔しないな?」  猫は毛づくろいをしている。  ※  二〇〇九年一月二十日。洞窟基地内部。  男は大陸にある超大国史上初となる黒人大統領の就任式を眺めていた。 「さて、歴史的瞬間もみたし、始めるか」  男は台所の掃除や録画の設定確認を終えると、ダイビングスーツに着替え小型の酸素ボンベを背負い込んだ。そしてジュノスが入ったケージを抱えエレベーターの様な入り口が置かれた部屋へと向かう。扉に付いた装置の乾電池を新品と交換しタイマーをセットする。以前壁に貼りつけていた装置の片方を壁の装置に差し込みもう一つを回収する。中に入りマスクを着け、備え付けのカレンダー付デジタル時計を確認し、先程回収した装置を外にあった装置と磁力で連動して動くように設置する。 「ふう…」  男が全身を緊張させながら装置を少しずらす。すると、覗き窓が一瞬鏡面になった後直ぐ元に戻り、外からコトンという音が聞こえてくる。 「どうなった?」  男が不安を抱きつつ扉を開ける。辺りを見渡し、警報が鳴っていないことを確認すると外に置かれた時計を確認する。  ”二〇一二年七月二十日”  時計を確認すると、男は以前同様モニタールームへと向かった。そう、この男は三年と六ヶ月、時を飛び越えたのだった。  ※  男がモニタールームで監視装置の電源を入れ、各部屋の状態を確認していく。ジャンプルーム、モニタールーム、倉庫を始めとし順々に確認を進めていく。これより前に一年に渡る放置試験を行い、大抵の問題をクリアしておいたおかげか、単に運が良かっただけなのか、大きな問題は何も無かった。 「電源異状なし、非常時電源異状なし、室温調整開始、湿度調整開始、換気システム稼働、水量変化なし、通信確認、電波受信確認、異状なしと」  呆気ない程に事が進み、緊張から開放された男は安堵から椅子の背もたれに身を預ける。暫くそうした後、ダイビングスーツを脱ぎテレビを点ける。チャンネルを操作しニュース番組を見つける。経済情勢、天気予報、政治家の疑惑報道、スターのスキャンダル、テロ報道、新作映画の宣伝等、四年前とほとんど変わらないラインナップだった。 「特に大きな変化は無し…か?」  この後過去の記録を眺めて一年前の二〇一一年が大型ニュースだらけだったことを知るのだが、この時点ではもはや過ぎた事柄となっていた為仕方のない感想だった。以前同様、この日は殆どの時間をモニタールームで過ごした。その後は睡眠を取り、食事をし、三年と六ヶ月の間に溜まった録画や報道記事の確認をした。  二〇〇九年、二〇一〇年とさしたる変化もなかったが、二〇一一年は多少違っていた。 「政変の連鎖に、地震、原発事故、有名テロリストの殺害事件に、傀儡独裁者の交代、か。パパラッチも健在だし、地震以外は大したことでもないな。まあ、ここは地震が頻発する場所じゃないし、気にする必要も無さそうだ。ジュノス、安心して良いぞ」  声をかけた先ではジュノスが猫用の草を()んでいる。この洞窟内には自家栽培用のスペースがあり、この草もそこで育てられている。元々は様々な種類の野菜や果物を育てる予定だったのだが、放置実験の結果全滅したことがあった為、現在は猫用の草や、僅かな期間で収穫可能な植物を、持ち運べる程度の大きさのプランターで育てるのみだった。この他にも男は様々な施設を用意していた。  電源、配線、換気、洞窟の補強工事はあの結晶を発見する以前に殆ど完了していた。それも時間をかけてたった一人で進めてしまった。男にはもともと必要な知識も施工技術もなかったのだが、水中洞窟を発見した時頭に浮かんだ光景を実現させる為、学生時代には考えられない程の集中力と持続力を見せた。もちろん全ては当選金の存在が前提となるわけだが、環境の変化による自身の変貌に男自身も驚いていた。そこへあの発見が重なり、洞窟はただの隠れ家から終の住処へと進化したのだった。  男は結晶に名前を付けていなかった。もともと学者ではないし、公表する気も一切なく、誰かと話題にすることも無かった為当然といえば当然だった。それでも、それの性質は可能な限り調べていた。そして中に閉じ込められた空間が、まるで時が止まったかのように変化を見せないでいることも突き止めていた。この発見こそが隠れ家が進化する始まりだった。  男は地上での調査のあと洞窟へ戻り、まずは球体出現の再現を繰り返した。周囲に残った結晶をひとつひとつ丁寧に取り外していき、球体が消失する結晶を特定していった。その結果、正六面体を構成するような配列が出現した。すでに採取済みのサンプルを模型のように組み合わせ再現することにも成功した。正六面体構造を作る際、一辺に約四十二センチ以上持たせる必要があることも特定した。その後はトントン拍子に発見をしていった。球体が出現するときその境界面にあったものは分子レベルで引きちぎられていて、ガスや液体等は熱を僅かに放出する程度だが、個体、特に硬度の高いものは衝撃を伴うことがわかった。放射線検出用に予め用意しておいだガイガーカウンターに反応は見られなかった。そしてその分解能力には際限が見えなかった。破壊不可能と思われていた結晶自体を境界面に置いた実験は、結晶の欠片が飛び散り消失する結果に終わった。球体を消失させた際にはもう一方も消失した。さらに、球体が空間を完全に封印していることや、質量や重心が固定された状態になること、中に閉じ込めた時計が停止していること、閉じ込められた生物に害が見られないことが判明していった。決まった配列をもたせさえすれば、結晶同士の結合力が弱くなるものの、球体を巨大化できることもわかった。  矢継ぎ早の発見によって男は人生最大の興奮状態に陥っていた。宝くじが当選した時を凌駕していた。もしこの発見を地上でしていたなら間違いなく周囲にバレていたろう。そして然るべき機関に拘束され発見は奪い去られていただろう。  目標の変化に伴って、それまでは必要最小限だけ持ち込んでいた水と食料の確保が課題となった。洞窟の広さからして収容することは十分可能だろうが、ダイビングスーツを着ながら限られた酸素内で運搬を繰り返す行為は現実的でなかった。そこで潜水艇の購入を検討した。「見つけるのは難しいだろうな」と思いながら探してみた処、あっさりと見つかった。富裕層向けの小型潜水艇ならすぐにも手に入りそうだった。しかし物資運搬を目的とするには不十分だった為、観光用の潜水艇に目をつけた。都合の良い事に、かつて就航するも即廃業となった海洋観光事業があった。廃業した元事業者を探し出し、債権者に渡ったきり宙ぶらりんになっていた潜水艇を手に入れる事ができたのは幸運だった。多少の手直しを依頼して受け取るまでたったの半年で完了してしまった。予備として小型潜水艇も購入した。因みに、取引は怪しまれないようにと、全て事業者として行なっていた。ペーパーカンパニーはこの時の副産物だった。売り文句は「ゆりかごから墓場までなんでも売ります、夢が欲しい?売ります! 思い出がほしい?売ります! 違法なもの以外でしたらなんでも売ります! NTショッピング!」だった。取引相手には、富裕層向けで一般には宣伝も販売も行なっていないと触れ込み、インターネット上に会員向けサイトまで用意していた。もちろん利用者は自分一人だけで、サイトドメインも取引先にしか教えていなかった。なのでアクセス解析をみて取引相手が自分の調査をしている様を確認しながらニヤニヤしたりもしていた。結局怪しまれていたのか、取引相手から会員になりたいという金持ち風の男を紹介されたが、顧客を守るために既存の会員からの紹介しか受け付けていない等と、適当なことを言って切り抜けていた。小切手が換金できたからといって信用されるものでもないらしかった。男はこれ以降大きな取引はせず、物資の収集と資産の移転、分散、運用だけにこの法人を利用した。そして二〇〇八年に廃業し、手元には各国をまたいで計二十にわたるペーパーカンパニーと他人名義のクレジットカードが残った。先駆者が沢山いたおかげか、手続きはとてもスムーズに行えた。一般の取引相手と違って法律家たちは作業的に全てを完了してくれた。高額の報酬と引き換えに詮索されることもなかった。  輸送手段を得た次は水の確保に集中した。まず大きな水槽を作った。そして外の岩場で窪地を探し出し、穴を開けてフィルターと管を取り付けた。それを他の配線同様に洞窟内部まで繋げ、ポンプで雨水を汲み水槽に貯めた。更にフィルターを通してもう一つの水槽に水を保管し、排水設備を取り付けて一先ず完了とした。  ※ 「ジュノス、毛玉はそこで吐けよ。ジュノース!」  男は草を喰んでいるジュノスからラップトップに目を戻す。  元野良猫のジュノスを躾けることには労力を要した。猫は擦り寄ってきたとしても、決して犬のように屈することがなかった。猫にとってのそれは処世術にすぎなかったのだろう。トイレの躾が済んだあとは殆ど自由にさせていた。 「はあ、どこからだっけ、えーと」  男は外出に向け時事ネタを眺めていたのだが、集中が続かなくなり休憩することにした。そこから三日間は録画しておいた映画やドラマの鑑賞に費やされることとなった。  八月。 「ジュノス、おいで。おいでおいで」  両手を伸ばし捕まえようとしたところ、男は猫に左手の甲を引っ掻かれてしまった。 「血が出ちゃったじゃないか」  猫は何事かと警戒し、一向に寄って来ない。 「パスポートが使えるうちに旅行もしておきたいんだ、手間をかけさせるなよ」  もし洞窟の奥へ逃げられてしまうと、捕まえるのに何時間も掛かってしまう可能性がある。男は冷蔵庫から人間用のハムを取り出してちらつかせた。そして猫用ケージの中に放り投げその場を離れる。猫は男が離れたことを確認しケージへと入っていく。男がリモコンの操作をするとケージの中に鏡面が現れる。 「そこでハムを食っててくれ」  そう言い男は旅支度を始めた。  ※  男は旅を終え洞窟に帰還した。大量の荷物を床に置き終えると猫用ケージの鍵を外す。中には一匹の黒猫がおり、ハムの前で鼻をひくひくさせている。 「ただいま、ジュノス。お互い無事に過ごせたようだな」  男は旅を終え二ヶ月ぶりに洞窟へと帰還したところだった。猫は停止した時間の中に閉じ込められていて、男が旅行へ出かけた日のままだった。日焼けした笑顔からは、遊び呆けて帰宅したゆとりある富裕層といった面持ちが感じ取れた。 「おまえに土産を買ってきたぞ」  そう言うと、男は旅行鞄から銀の器を二つ取り出した。 「銀製の食器だぞ、もし食事に毒が混じっても器が黒ずんで知らせてくれる。これで忍者に毒殺されそうになっても安心だ。底の部分に少し凹凸があるけど、伝統と格式の名残だから気にしないでくれ」  男は猫の前に銀食器を並べる。旅行先のマーケットで入手したものだった。かつて貴族が使っていたものだが、家紋が研磨され、人々の手を渡り、今、一匹の雄猫に献上された。現地のまともな商店でこういった品が扱われることはないのだが、マーケットでは度々見かけられる品だった。 「あと、これ」  男は猫用の服、靴、帽子、玩具のサーベルを取り出した。完全にふざけている。旅先で見かけたペット洋品店で見つけたものだった。特に帽子に施された細工はお国柄をよく反映していた。今回の旅行は思いの外充実したものだったらしく、予定最終日には浮かれながらジュノス用のお土産を買い込んでいた。もともと現金やカードが使えなくなった時のためにと、地上に出るたびに現物資産となるものを買い漁っていたのだが、猫用品は戯れでしかなかった。  献上品ごっこが終わると、次に写真を取り出した。 「これが短距離会場でとった写真」 「これは宮殿の前」 「これなんて船の上にプールがあるんだぞ、海に船を浮かべてわざわざその上でプールって…」 「ああ、彼女は道中知り合ったんだ。向こうも一人旅で、じゃあ一緒にって、さ。野暮なことは聞くなよ」 「これは予定になかったんだが、ふらりと立ち寄った農村」 「これがあの有名な博物館」  独り言はこうして延々と続いていった。猫はハムを食べ終えた後、すぐに眠っていた。  興奮が冷めた頃、男はシャワーを浴びて眠った。そして翌日から、勉強と称して映画やドラマを眺める日々に戻っていった。  男が倉庫の整理をしている。どんなに浮かれようと倉庫の管理だけは怠れなかった。いくら食料品を腐らせる心配がないとはいえ、無計画に消費できる程は用意していなかった。手に入れた結晶には限りがあって、作成できた貯蔵庫にも限度があったからだ。それにコールドストレージと名付けた時間凍結倉庫の用途は一つではなかった。蓄電を終えたバッテリーを保管したり、こことは別の水中洞窟でも物資の保管をしていて、倉庫管理に於いてはとても慎重だった。 「二十二世紀に辿り着くのはもう少し先になりそうだな。頑張ってくれよ人類」  男は便利なテクノロジーの出現を他力本願に待ちわびていた。自分以外頼れない洞窟の改造には極めて能動的に振る舞う男も、洞窟外のことに関しては全く受動的であった。  ※  二〇一六年。 「今回はお前を置いて行ったりしないからな」 「ったく、なんであんな治安の悪い所で国際大会なんて開くんだろうな」 「久々に故郷に帰れるんだぞ、ジュノス」  そんな独り言を言いながら男は支度を始めた。消費した保存食やジャンクフード、新しいコンピュータ端末やAV機材等が印刷されたリストを鞄にしまう。注文はすでに終えていて、ペーパーカンパニー名義で受け取ることになっていた。 「地球上いつでもどこでもお届けします VRテクノロジーソリューションカンパニー」  創業八年になるペーパーカンパニーのキャッチコピーには、最早偽装感しかなかった。活動を殆ど行なっていないことが、疑いを抱かれない唯一の強みだった。  今回は補充以外に何もする予定がなかったので、地上に戻ってから一週間で無人島に戻る予定だったのだが、実際に戻ったのは二週間後だった。地上に戻ったその日、以前と同様にジュノスを放ったのだが、ジュノスは戻って来なかった。  帰宅予定日。 「一日くらい待つか」  次の日。 「そういえば気になってたゲームが出てたんだったっけな、買ってこよう」  次の日。 「ジュノース!ジュノース!」  帰宅予定から七日目。 「達者でな、ジュノス」  男の旅の性質上、ここで別れたら寿命の短い猫に再会する可能性は殆ど無い。何があったかは分からないが、ある程度は覚悟の上だったので、諦めて船を無人島へと向かわせた。洞窟へ戻った後も一人でやらなければならない作業が残っており、感傷に浸る暇はなかった。  空のケージを抱えながら男は一人で洞窟へと戻った。ウインチを使って潜水艇を水中から引き上げ台に設置する。積荷を倉庫へ運び淡々と整理していく。作業を行う手つきに淀みはなかったが、表情は浮かない様子だった。 「ふてぶてしいやつだったし、今頃子供でも作ってるんだろう。あのロリコン野郎」  男と一緒に時間旅行をしていたせいで、ジュノスは本来属していた世代との間に隔たりが出来てしまっていた。だが猫にとっては些細なことでしかないので、ロリコンとは言い過ぎだった。男はぶつぶつと独り言を言いながら、ジュノス用の食器や玩具をジュノス用の部屋に集めて扉を閉めた。  日常の変化にいくらか戸惑いを覚えつつも、タイムジャンプへの備えを怠るわけには行かなかった。ここまでに一年を一回と三年六ヶ月を二回分、時間をスキップしているのだ。それは記録上にある自分自身の年齢との開きを表している。すでに八年も歳の差が発生していることになる。このまま行くと、いずれ地上でまともに身動きがとれなくなってしまう。そのためにパスポートを新しく作り直したり、ペーパーカンパニーを用意したりしていたが、いずれ限界が出てくるだろう。年が進む毎に規格が変わるAV機材の刷新もスムーズに行えるか分からない。大した進歩もなく、規格だけが変わっていく機材進化の状況に、男は焦りと憤り、そして失望を感じ始めていた。 「あいつがこの時代に残ったのも頷ける」  暫く独り言による愚痴が続いていた。本人も愚痴を自覚したのか、気分転換にと小型の潜水艇に乗って予定外の外出を行った。十二月のことだった。外へ出るとすっかり冬景色になっていて、街はこのシーズン特有の空気を帯びている。男はジャンクフードを片手に映画館を目指していた。最近公開された映画の中に気になる作品があったからだ。  それは惑星移住船の話だった。この手のSFにつきものの人工重力や船全体をカバーするバリア、百二十年たっても尽きないエネルギー源等を搭載した船が登場する。もちろんコールドスリープも。昔見たテレビドラマになんとなく似たようなデザインだった。この物語は五千人居る搭乗者の中で一人だけが目覚めてしまい、なんとかコールドスリープに戻ろうとするところから始まる。 「もし俺があの発見を公開したら、こんな風になるんだろうか…」  男は自分の現状と重ね合わせながら鑑賞を続ける。物語が進んでいく。登場人物が増え、大小のトラブルが起こり、それらが解決されハッピーエンドとなった。途中何度か腑に落ちないやり取りがあったものの、主演男優と女優の活躍ぶりに、男は概ね満足感を感じていた。  帰りの道中、男は自分が独占している発見の扱いを思案していた。使い道は広範囲に渡る。然るべき機関で研究すれば、間違いなく世界中で産業革命を起こすはずだ。「独占していいものだろうか」等と柄にもなく考えていた。 「さて、そろそろ準備を始めないとな」  一ヶ月後。男は何も変わることなくジャンプの準備を進めていた。当初の目的である気分転換を果たし、改めて未来行きの片道切符を握りしめていたのだった。
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