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 その夜、ノズチは熱を出した。モシキが文様を彫った両腕は赤くなってパンパンに腫れ上がっていた。  ノズチは、一万年も後になってから子孫達に「竪穴式住居」と呼ばれるような、簡素な茅葺きの家の土の床に身を横たえて、ぼんやりしていた。  姉のセリが、ノズチの両腕に薬草をぺたりと貼った。ヒリヒリする。 「一晩、寝ていりゃあ熱も引くだろうさ」  セリは、ノズチの額をピシリと叩いて、ハハ、と豪快に笑った。 「体にシルシを入れて、泣き虫のノズチもようやく大人になったな」  父も上機嫌で言った。今日は祝いだと言って、滅多に飲まないヤマブドウの酒を飲んでいた。顔を赤らめてニコニコしている。  なぜみんなして笑うのだろう。自分が、こんなに死にそうな思いをしているというのに。  ノズチは、己の不機嫌を目一杯表すために、唇を尖らせ、鼻のあたりにぎゅっと皺を寄せた。しかし、父も姉も、そんな事は一向に気にも留めない様子である。  薄暗い家の土床の中央に埋め込まれた土器(かわらけ)の中で燃える小さな炎が、仄かな光を投げかけ、ノズチの頬を微かに赤く照らしている。  ノズチは、炉の光に映える姉の腕を盗み見る。自分と同じ、いいや、自分の腕よりももっとびっしりと渦巻の文様の刺青で埋め尽くされている。  父もそうだ。死んだ母も、幼いノズチを抱く腕に美しい文様が描かれていたのを覚えている。  妻を娶って既に独り立ちしている壮健な二人の兄に至っては、顔や足の裏にまで刺青を彫り込んでいた。  大人達だけじゃない。ノズチと同じ年頃のカンザルや、カンザルの弟のワヘも刺青を入れている。  みんな、痛くはなかったのだろうか? 泣かなかったのだろうか?  ムラの皆が刺青などなんでもない事のように平然としているのが、ノズチには悔しかった。  やはり自分は、いつもカンザルに馬鹿にされているように、特別に泣き虫で臆病者なのだろうか?  悔しい。  だが、その通りなのかもしれない。  確かに、自分は臆病者だ。このムラの誰よりも……。  だって、自分は、刺青の痛みに涙しただけではなく、もっと大切なものから逃げ出してしまったのだから……。  ノズチはひんやりした土の上で、背中を丸め、瞼をぎゅっと閉じた。  ザザザザザ、と木々が揺れる音。ひょおう、ひょうおう、と風が唸っている。 「……嵐が来るね」  姉が、緊張を滲ませた声でぽつりと呟いた。  ひゅうううう。ひゅうううう。  荒れ狂う風の神の歌。いつもは穏やかな風の神も嵐の晩には、ヒトや獣の命など平気で吹き散らす程凶暴になる。  しばらくは父も姉も黙り、三人揃って無言で外の音に耳を傾けていた。  やがて天は地に向かって大量の涙を降らせる。  ザアアア……と、寄せては返すような、烈しい雨音。家が揺れている。  ノズチの胸の内側でドクドクと太鼓が打ち鳴らされる。  なんで急に嵐がやってきたのだろう? 昼間は、空も晴れて風も穏やかだったのに。  もしかしたら、と、ノズチは考える。 ――オニが怒っているのかもしれない……。俺が嘘を吐いたから。  そんな事を思った、次の瞬間だった。  稲妻が空を引き裂く音がした。  ガラガラガラガラ……バリバリバリバリ!  どぉおおおおん……!  最後の音は、何か大きな、重いものが大地に倒れる音。  父も姉も、ハッと息を呑んだ気配が伝わった。 ――ごめんなさい、俺のせいだ。ごめんなさい。  ノズチは熱でふわふわする心地のまま、声に出さずに何度も謝った。  もし、このムラに災いが降りかかるような事があるなら、それはきっと自分のせいだ、と思った。きっと、自分がオニに血を差し出さなかったためだ、とノズチは思う。
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