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夏至の夜
年に一度、夏至の日の夜、このムラの者は、ムラの守り神であるオニに「捧げもの」をしなければならないことになっていた。
オニに捧げるのは、ムラの人間の生き血だ。オニは山から下りてきて、ヒトの血を啜る。
オニに血を吸われても、死にはしない。少々、頭がぼんやりするくらいだ。オニに吸血されるのはありがたいことだと皆思っている。
特に、現代の年齢換算で言うところの十歳前後の年若い少年がオニに血を吸われた場合、オニの加護を受けた者とされる。そして、少年の肌には渦巻きの文様が彫り込まれる。すなわち、大人の仲間入りをするのだ。
ヒトの血を捧げものとして受け取ったオニは、ムラに山の恵みをもたらし、ムラの一年の平穏を約束する。
遙か昔から連綿と続いてきた、大切な儀礼である。
二年前はカンザルが血を捧げた。去年は、ワヘが。そして、今年はノズチの番だった。
あの夏至の日、ノズチは、まじない師である叔父のモシキに、山の中腹にある祈り場に連れて行かれたのだった。高い木々の生い茂る鬱蒼とした森を抜けた先にある祈り場は、広々とした原で、所々に巨大な石柱が、十数本程、建てられている。一本一本がノズチの背の倍はありそうな位、大きい。遠い昔のムラの人達が建てたのだという。ノズチ達のムラは、父系の血縁で結ばれた人々が三十人程で寄り集まって成り立っている。それは今も昔も変わっていないはずだ。つまり、石柱は、ノズチ達の先祖が建てたものであった。石柱は、天を太陽が横切る軌跡に関係しているのだという事をモシキから聞いたような気もするが、ノズチには詳しいことは分からない。
ノズチがこの祈り場に来るのは初めてだった。
普段、祈り場に立ち入る事ができる人間は限られている。ムラ一番のまじない師であるモシキは、その数少ない者のうちの一人だ。
しかし、祈り場の向こうの山奥には、モシキですら足を踏み入れる事はできない。何人たりとも決して入ってはならない禁足の地だ。そこは、オニの土地だからだ。狩りも、祈り場よりも麓側の森で行う。祈り場よりも奥に逃げ込んだ獣を追う事も禁じられている。
祈り場は、山に住むオニの世界と、麓で暮らすヒトの世界が交わる、唯一の接点であった。
ノズチは、石柱が立ち並ぶ祈り場の中央に座らされた。
モシキは、肩に担いできた太鼓を打ち鳴らす。
歌を歌う。朗々と。
ド、ド、ドン、ド……と、鹿の皮がピンと張られた太鼓が吠え、大気が震えた。オニを呼び出しているのだ。
ノズチはだんだんと落ち着かない気持ちになってくる。
モシキの歌は、太鼓の響きは、本当に、山の奥深くに棲むオニに届いているのだろうか。
日がゆっくりと暮れていく。空が朱に染まる。山の稜線が黒くなり、ノズチの頭上を覆って迫ってくるかのように感じた。
ド、ド、ドド、ドド、ドッドッ……
太鼓の律動は徐々に速くなる。それに合わせてモシキの歌声も高くなったり、低くなったりしながら、日の光の残照を夕闇にかき混ぜるように、うねる。
日が山向こうに完全に沈みきった。
それとともに、モシキの歌も、太鼓の音も止んだ。
モシキは去った。ノズチを一人残して。
一言も発さず、来たときと同じように太鼓を肩に担ぎ上げて去って行った。オニが来る前にヒト同士が言葉を交わしてはいけないという決まりだった。
闇と静寂がノズチを包み込む。耳の奥に、まだ太鼓の残響が漂っているかのように感じた。
息を殺し、オニが来るのを待つ。今日は円くなっているはずの月は、雲に覆われているらしく姿を見せない。厚い雲の間からは、ちらほらと星の瞬きが見えている。
じっとり生温い風が原の草を揺らし、ノズチの肌に絡みつく。
時が過ぎた。
やがて、ノズチは両腕をいっぱい伸ばし、ふわっと欠伸をしてみた。
始めは緊張して待っていたものの、オニなるものはいつまでもやってこない。ノズチは次第に退屈を感じ始めていた。
本当はオニなんてものはいないのじゃないか。そんな事さえ考え、徐々に瞼が重くなってくる。眠い。
祈り場に座ったまま、気が付くと、うつらうつらと船を漕いでいた。
その時だった。
……うあ、あ……あ……
耳元で何かが聞こえた。はっとして身を起こす。
あたりを見回すが、全てが闇に覆われて、何も見えない。
しかし、気配は確かにあった。
何か、いる。
ノズチは身を硬くした。
……う、う……あぁ……
再び、聞こえた。意味をなさない、不明瞭な発音。それは、舌足らずな子供の声のようでもあり、歯の抜けた老人の声のようでもある。
……のぅ、ず……のずぅ……ちぃ……
ゆっくりと、聴いた事もないような、嗄れた低い声でノズチの名が呼ばれる。
その瞬間、ノズチは、全身の毛が逆立つような激しい悪寒を覚えた。
これは、オニだ。
オニが来たのだ。
ノズチは、直感的に確信した。
口の中がからからに乾いて、恐怖のあまり上手く呼吸ができなくなる。手足が自然と震える。
ひたすら恐ろしかった。
闇の中で自分の名を呼ぶ、得体の知れない存在が。
そして、得体の知れないモノに、今しも自分の血が吸われそうになっているという、その事実が。
不意に、首筋にプツリと小さな痛みが走った。
オニの牙が突き立てられたのだ、と思った。
それに気が付くと同時に、ノズチは、うわあああああ! と叫び声を上げて立ち上がっていた。
しまった、落ち着け、と頭では思うのだが、もはや恐怖が心を支配していた。ノズチは、頭で何かを考える前に、転がるようにして、麓のムラに続く道に向かって必死に走り出していた。
その時、月を覆っていた雲がさぁっと晴れた。白い光が行く手を照らす。
ノズチは、ヒィヒィと肩で息をして、足をもつれさせ、泣きながら、よろよろと駆けていたが、思わず後ろを振り返った。
淡い月の光の下、そこにはオニが佇んでいた。
それは、人に似た姿をしていた。
しかし、人ではない。
地に着く程の長さまで茫々と伸びた、真っ白な髪が風に翻っているのが目についた。背丈は、ノズチよりもやや高いくらいであろうか。白い髪の下で、顔の半分くらいはあろうかという大きな赤い目玉が、爛々と光を放って、ノズチを見つめていた。口元からは、鋭い牙が幾本も飛び出している。
そして、取り分け異様なのは、オニの裸の体が、隙間なく、曲がりくねった渦巻文様の刺青で埋め尽くされている事だった。無数の線で描かれた刺青は、オニの体の上を、のたくりながら、縦横無尽に這っていまわっている。
……の、お……ず……ちぃ……ちぃ……ちいぃぃぃ……
オニが呼ぶ。ノズチに向かい、一歩踏み出す。
「や……いやだ!」
ノズチは、必死でそれだけ叫ぶと、再びオニに背を向けてがむしゃらに走り出した。
逃げなくては。
もう他の事は何も考えられない。実際、オニに血を捧げずに、ムラに帰ったらどんなことになるのかすら、何も考えてはいなかった。
茂みをかき分け、走った。
遠くの方で、うおおぉぉおおん……という、不気味な遠吠えが響いていた。
あの夏至の夜、結局、ノズチはムラへ戻る勇気もなく、しばらくは森の中を当て所なくさまよい歩きながら、明け方近く、祈り場に戻ったのだった。
そこにはもうオニの姿はなかった。
夜が明けて東の空が明るくなってから、モシキがノズチを迎えに来た。
「一人きりで怖かっただろうが、勇気を出してよく頑張ったなぁ」とモシキは褒めたが、ノズチは顔を上げることもできず、黙ってモシキの後ろをとぼとぼと歩いていた。本当の事を打ち明ける事はできなかった。
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