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 ひどい怪我を負って運ばれてきたレイレを見て、俺のせいかもしれない、とノズチは考えた。 ――俺がオニに血を捧げなかったせいで、オニが怒っている。だから、オニはレイレ兄さんの足を取っていってしまったのかも……。  ノズチは己を責めて落ち込んだが、やはり夏至の夜の事は誰にも言う事はできなかった。  レイレは大怪我を負ったものの、一命は取り留めた。しかし、ムラで一番勇敢で、力強く、狩りも上手かったレイレはもう二度と野山を駆けて鹿や猪を追うことはできない。薄暗い家の土床に敷かれた藁の上に横たわるレイレは、妻や子供達の看病を受けながら、焦点の定まらぬ虚ろな目で家の梁をじっと眺め、傷が痛むのか、時折うめき声を上げた。なぜレイレは怪我をしたのか、誰が訊いても、レイレはただ首を横に振り「わからない」と答えた。  レイレの青白い顔を見る度、ノズチの胸は締め上げられるように痛んだ。  レイレの不可解な怪我のため、ムラは暗い空気に包まれていた。  しかし、落ち込んでばかりいては生きていけない。  翌日は、男達が狩りに出る日だった。  ノズチも一人前になったからと、大人達と一緒に連れて行ってもらえることになった。  狩りに出掛ける前も「足手まといになるなよ」とカンザルはまたしてもノズチを睨みつけた。ノズチよりも年が幾らか上で、体も大きいこの従兄弟は、モシキの息子だが、最近は何かとノズチに突っかかってくる。ノズチもカンザルの事は好きではない。しかし、カンザルに何か言われても無言で睨み返すだけ睨み返し、何も言い返さないようにしていた。    天に突き上げるような大きな角を振りかざし、巨躯の雄鹿が木々の間を風のように駆けていく。  三匹の犬達が吠え、追いかける。ヒトもその後に続く。  ノズチも槍を持って、皆の後ろから離れぬよう、懸命に追いかけた。  鹿が追い立てられる先にも、ムラの男達が潜んでいる。  不意に行く手でバサバサバサッと慌ただしい音がした。鹿が、ピィ! と鋭く鳴いた。  罠として掘ってあった落とし穴に落ちたのだ。  鹿は穴から這い上がろうとして必死にもがいている。しかし、その間にも、待ち伏せをしていた男達が次々に鹿に向かって矢を射ていた。  雄鹿の首筋に幾本もの矢が突き立てられ、その足掻きは徐々に鈍くなる。 「ノズチ、とどめを刺せ」  イリリがノズチを振り返って言った。  ノズチは槍の柄を握りしめて、鹿に近づいた。雄鹿は、血走らせた目をカッと見開き、荒い息をしていた。鹿の黒い瞳がノズチを見る。なぜか怪我を負って動けなくなったレイレを咄嗟に思い出した。ノズチは、なるべく鹿の顔を見ないようにして、槍を振りかざし、鹿の首に思い切り突き立てた。  鹿はビクリビクリと体を数回震わせたが、すぐにぐったりと動かなくなった。 「やったぞ!」 「よくやったな、ノズチ」  久しぶりの大物の鹿に、皆、顔を綻ばせて喜び、大人達はノズチの肩を叩いた。  カンザルは遠巻きにその様子を見て、面白くなさそうな顔をしていたが、さすがに何も言わなかった。  男達は、すぐさま手頃な木の枝を切り落とし始める。集めた木の枝は紐で縛る。  鹿を運ぶための橇を作っているのだ。  ノズチも、腰紐に結いつけて持ってきていた小さな石斧を使い、木の枝を切る作業を手伝った。  しばらく作業に熱中していた。だが、しばらくして、ふと視界の端に何か黒いものが横切った気配があった。背筋にぴりっとした緊張が走る。  顔を上げて辺りを見渡す。さっきまで、すぐ近くにいて一緒に枝を切っていたはずのイリリの姿が見えなかった。  森の奥から、うおおぉぉーん……と遠吠えが聞こえた。犬の鳴き声ではない。狩りのお供に連れてきたムラの犬は、三匹ともここにいる。狼だろうか。 「おい、ノズチ! 何をぼんやりしてるんだ。枝を切り終えたらさっさと持って行け」  ノズチが物思いにふけっていると、カンザルが文句を言ってきた。 「カンザル……今、森の奥の方から狼の遠吠えのようなものが聞こえなかった?」 「はぁ?」  カンザルは、ノズチの問いに素っ頓狂な顔をした。 「何も聞こえねーよ。それに、もしお前にもわかるような狼の声だったら、他の誰かが先に気が付いているはずだろ?」  もっともだった。周りの男達は黙々と作業を続けていて、遠吠えに気が付いた者は誰もいなさそうだった。  遠吠えは、ノズチにだけ聞こえたのだろうか?  嫌な予感がする。 「どうせ適当な事を言ってさぼろうとしているんだろう。だから、いつもお前は……」  カンザルの言葉を最後まで聞く前に、ノズチは足下に切り取ったばかりの枝を放り投げ、木立の向こうへと駆けだしていた。 「おい、待てよ!」と言ってカンザルが後ろから追いかけてきたが、相手をしている余裕はなかった。  背後からは、犬達が落ち着かなさそうにワウワウ吠える声が聞こえている。犬も何かを感じ取っているのかもしれない。  しばらく走ったところで、細い流れの沢の近くにイリリを見つけた。背の低い木に体をもたせかけている後ろ姿が目に入った。 「イリリおじさん!」  ノズチが呼ぶと、イリリは振り返った。その顔は、青白く、何かとても恐ろしいものを見た時のように凍り付いて見えた。  イリリは恐怖を顔に貼り付けたまま、ゆっくりと首を横に振る。 「来るな……!」  腹の底から絞り出したような声だった。 「おじさん?」  思わず、ノズチは足を止めた。  イリリのすぐ傍に何かいるという事に、ノズチはやっと気が付いた。  黒い影。  グルルルルルル……と、獣の唸り声が聞こえる。きっとレイレの左足にまとわりついていた影と同じものだ。  影の形は見ているうちに徐々にはっきりしてくる。四つん這いの獣のカタチをしているようだった。顔のあたりに真っ赤な瞳が光っていた。  全身が影に覆われているので何の獣なのかは分からない。狼のように見えるが、普通の狼の倍以上はありそうな程に大きい。 「何だ……あれ……」  ノズチに追いついてきたカンザルがいつのまにか隣に佇み、唖然として呟いた。カンザルにもあの影が見えるらしい。  わうおん! と、鋭い声が響く。背後から、二人のすぐ傍らを疾駆していったものがあった。狩りに連れてきた犬のうちの一匹だ。しかも、イリリが特に可愛がっている犬だった。  犬は、イリリを助けるため、牙を剥き、影にまっすぐに立ち向かっていった。  グオオオオ、と影が地を這うような声で吠える。犬がはね飛ばされ、地に転がった。もう動かない。瞬きひとつの間に、首を折られて殺されていたのだった。  影は再び、イリリの方を向いた。 「おじさん!」  ノズチもたまらず、石斧を振り上げてイリリに駆け寄ろうとする。 「待て……!」  カンザルがノズチの肩を押さえ、引き留めた。  次の瞬間、目の前で影が音もなく跳躍した。真っ黒な牙がイリリの体をざっくりと引き裂く。  血の朱が噴き上がり、大地を、樹木の幹を濡らす。勢いよく撒き散らされた血の滴は、ノズチとカンザルの頭上にも赤い雨になって降り注いだ。  叫び声を上げる事もできない。  ノズチもカンザルも、元の姿すら分からなくなる程に真っ赤に染まって倒れ伏したイリリの体を、一言もなく、ただ呆然と眺めていた。  影はもう消えていた。  後ろから幾人もの忙しない足音が聞こえた。ムラの男達が異変に気が付いてやってきたのだ。  しかし、もう全てが遅かった。  ノズチはその場にがっくりと膝をついた。それから後の事は、気を失っていたものか、よく覚えていない。
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