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 ノズチは、ぬかるんだ地面を踏みしめ、生い茂る羊歯をかき分けながら歩いていた。光の射さない暗い森の中に、ギェッギェッと恐ろしげな鳥の声が響く。  歩いているうちに、気が付くと足には五、六匹のヒルが吸いついていた。ノズチは、時折立ち止まっては、ぬめぬめとしたヒルを摘んで足から引きはがした。  狩りの時でも滅多に使わない獣道だ。じめっと肌に絡みつくような重苦しい空気が、ノズチの胸の内を、恐れと不安でひたひたと満たしていく。  しかし、祈り場に行くには、この道が一番の近道だった。  ノズチは手に持った弓をぎゅっと握りしめる。背には、狐の皮で作った矢筒を背負っていた。矢筒の中には五本ばかりの矢が納められている。  父にも、姉にも、ムラの誰にも言わずにここまでやってきた。  祈り場に行ったモシキ達が、あの狼のような黒い影に襲われるかもしれないと思っただけで、いてもたってもいられなくなったのだ。  しかし、自分が行ったところで何になるのだろう。引き返すべきなのではないだろうか。そう思う度、ノズチは自分の腕の刺青を見つめた。 ――俺は一人前だ。だから、行く。モシキおじさんの言うように、俺にまじないの力が備わっているのなら、きっと俺は皆を助けられる。オニに謝って、怒りを鎮めてもらおう。  ノズチは、今にも萎みそうになる勇気を懸命に奮い起こして、前へ前へと歩き続けた。  やがて、行く手にねじ曲がった枝を頭上に大きく広げた巨大な古木が現れた。  この木の右を行くべきか、左に行くべきか。ノズチは迷った。森の中の慣れない道を長い間歩き続けたせいか、方向の感覚があやふやになってきている。  ノズチはしばらく考えた後、己の勘を頼りに左の道に進もうとした。  がさり。  ノズチが一歩足を踏み出すと同時だった。目の前に突然人影が現れた。 「わぁ……!」  悲鳴を上げ、思わず後ろに後ずさる。その拍子に木の根に足を取られて、ノズチは盛大に仰向けに転んだ。 「何をしているんだ?」  転んでもがいているノズチを呆れたように見下ろしていたのはカンザルだった。  カンザルは、ぽかんとしているノズチの腕をとって、立ち上がらせた。 「お前は相変わらずの間抜けだな。祈り場は右だ」  怒ったようにそう言って、カンザルはノズチの先に立ってずんずん歩いていく。カンザルは、手に石槍を携えていた。  ノズチは慌ててカンザルの背を追いかけた。 「なぁ、お前もおじさん達の様子を見にきたの?」 「……」  問いかけたが、カンザルは無視するようにわざと答えなかった。  もしかしたら、カンザルはノズチが祈り場に行くことに感づいて、先回りをしてあの木の傍で待っていてくれたのかもしれない、とノズチは思った。しかし、それを確かめようとしても、カンザルは本当の事は決して言わないだろう。  カンザルとノズチはしばらくは互いに無言で、森の中を歩いた。 「お前は……」  ふと、静寂の中に言葉を投げ入れるように、カンザルが声を出す。 「お前は、夏至の夜、祈り場から逃げ出したそうだな。オニに血を捧げもせず」  カンザルはやはり、ノズチとモシキの会話を盗み聞きしていたようだ。 「ああ……俺は逃げてしまった」  ノズチは、正直に応じた。 「一昨年の夏至の夜、俺はちゃんと朝までいたぞ。お前のような臆病者とは違う」  カンザルが鼻で笑う気配がした。ノズチはむっとしたが、言い返す事ができず、下を向いて黙っていた。 「……だけど」  カンザルは続けた。 「俺には見えなかった。オニの姿が……俺は朝までいたのに。オニが本当に俺の血を吸ったかどうかも、分からなかった……」  ノズチからはカンザルの表情をはっきりと伺う事はできない。だが、その声色は、どこかとても寂しげに聞こえた。  二人はまた無言に戻った。二人が羊歯の葉を踏み分けるだけ音が、やけに大きく響くようだった。
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