オニ

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オニ

 ノズチとカンザルが祈り場に辿り着いた時には、ちょうど山あいを縫って天から西日が射し込む頃合いになっていた。  並び立つ石柱が地に長い影を落とす。  石柱を元通りにし、結界を張り直すためのまじないは既に始まっていた。  モシキの打ち鳴らす太鼓の音と、朗々と響くまじない歌が夕暮れの空気を震わせる。ムラの男達六人が、モシキの歌の調子に合わせて、掛け声をかけあい、倒れた石柱を起こそうとしていた。  四人の者が、木の枝を組んで作った足場に上って石柱を肩に担ぎ、他の二人は、石柱の先端に架けた縄を反対側から引っ張っていた。  ノズチとカンザルは、祈り場から少し離れた茂みに身を隠しながら、モシキとムラの男達の様子を眺めていた。  このまま何も起こらなければいいのだけど、とノズチは祈った。  その時だった。  うおおぉぉ……ん  モシキの太鼓の音に紛れるようにして、狼の遠吠えがノズチの耳に届く。  ノズチの胸の鼓動が跳ね上がった。 「どうした?」  カンザルがノズチの様子がおかしいのを感じてか、小声で訊く。 「もしかして、近くにいるのか? あの……獣のような影……」  ノズチは声を発する事もできず、ただ、こくりと頷いた。  ノズチの視線の先、橙色の西日に照らされた一本の石柱の影から、真っ黒な獣が、ぬるり、と現れる。  鼻も、口もなく、陽炎のように揺らめく漆黒を身に纏った四つ足の影。ただ赤い目だけが燃えるように輝いている。  うううう……、とうなり声を発する。  影はモシキの周りをぐるぐるとまわり始めた。モシキも気がついている。モシキの声が、太鼓の音が、大きくなり、その律動は徐々に速くなる。  影は、急に速まった太鼓の音に、びくりと体を震わせるような動きを見せた。  モシキのまじないの力に阻まれて、影はある程度以上はモシキに近づけないようだった。  しかし「それ」は明らかに怒っていた。  ぐうううう、うううう……と激しく唸りながら身を低くし、今にもモシキに飛びかからんとする姿勢を見せる。 「父さん……!」  カンザルが突然、叫んだ。灌木の茂みから飛び出す。ノズチが止める間もなかった。  モシキは顔を上げ、目を見開く。歌と太鼓の音がぴたりと止まった。石柱を担ぎ上げていた男達も、突然現れたカンザルに驚き、ざわめいた。  カンザルは、槍を振りかぶり、影の獣に向かって真っ直ぐに投げた。  槍は、獣の体を通り抜けて地面にグサリと突き刺さる。  ぐぅおおおおおお……!  獣が身を仰け反らせ、天を仰いだ。かえって怒りを大きくさせてしまったのか、地を揺るがす声で吠えた。  カンザルには、獣の姿は見えても声は聞こえていない。  獣の体を形作る影が、ぶわり、と大きくなった。獣は、大きな体をカンザルの方に向けた。  跳躍する。  一瞬のことだった。 「カンザル……いけない!」  モシキの声が響いた。  血が飛び散る。 「おじさん! カンザル!」  ノズチも茂みを飛び出し、駆け寄る。  モシキとカンザルは、折り重なるようになって倒れていた。  そして、カンザルの体の上に倒れ伏したモシキの背中は、獣の長く鋭い爪で抉られたように酷く傷ついていた。  傷口からは、赤い血が流れ出ている。 「おじさん!」  ノズチはモシキを抱え起こそうとした。  しかし、モシキは首をゆるゆると横に振り、自力でゆっくりと体を起こした。それだけの力が残っていることに、ノズチは束の間安堵したが、モシキの顔は真っ青で、息は苦しげだった。 「父さん……!」  カンザルも起き上がり、モシキの体を支えた。カンザルは無傷だった。 「……ノズチ……太鼓を……」  モシキは、震える手を持ち上げて、祈り場に落ちている太鼓を指さした。 「……早、く……」  うわぁ! と悲鳴が上がった。  振り返ると、石柱を担いでいた男達のうちの一人が倒れ伏していた。首から血が流れ出ているのが見えた。 「柱から……手を離してならん……」  モシキは男達に呼びかけようとするが、喘鳴混じりの掠れる声は彼らには届かない。幾人かの者は石柱から離れて足場を下り、倒れた仲間を介抱しようとしていた。 「カンザル……お前も、柱を……」 「父さん、でも……」 「いいから、行け」  息も絶えだえのはずのモシキの声は、有無を言わせぬ不思議な威圧感を持っていた。 「分かった……」  カンザルは頷いた。モシキの体を地に横たえて、立ち上がる。ムラの男達のいる方へ走っていった。  ノズチも、急いで太鼓を手にとって、祈り場の中央に座る。  太鼓を両脚の間に挟み、掌で打った。  トン! と澄んだ音が響きわたる。祈り場を包む空気が揺らいだような気がした。  トン、トン、トン、トン、トトトト、トン……  ノズチは耳に残っているモシキの太鼓の音を真似て懸命に太鼓を打ち鳴らす。モシキの打ち鳴らす音よりも軽い響きではあったが、音の調子は正確であった。  太鼓の音に合わせて、横たわったモシキが微かな声で、途切れ途切れにまじない歌を口ずさむ。ノズチも、モシキの歌の続きを引き取るように、声を張り上げた。  歌は、モシキや他の誰かに習ったわけではない。だが、まじない歌の旋律は、自然と腹の底から湧き上がり、渦巻く音となってノズチの口から溢れ出た。  カンザルと男達は、ノズチの歌と太鼓にあわせて、再び石柱を担ぎ上げつつあった。  日はもう山並みの向こうに沈んでいた。黒い山の稜線が群青の夜空にくっきりと浮かび上がる。  お……おお……のぉ……ずぅ……ちぃい……  低く嗄れた声が聞こえた。  ノズチはどきりとし、太鼓を打つ手が僅かに乱れる。  すぐ傍に何かがいる気配。  しかし、あの魔獣の気配ではなかった。それは、もっと大きく、強く、優しい気配。  真っ白な長い髪が、ノズチの目の前で揺れ、白銀の髪の毛の一本一本がノズチの腕や頬に触れた。  爛々と光を放つ真っ赤な目。  口から飛び出した鋭利な牙。  体中にとぐろを巻く刺青。  オニが来たのだ。  オニは、ノズチのすぐ前に立ち、じっとノズチを見下ろしていた。  ちぃ……ち……血を……血を……  オニは、牙の並ぶ口を開け、血を欲した。オニの息がノズチにかかった。腥い匂いが鼻に突き抜ける。 ――オニよ。  ノズチは、太鼓を打ち鳴らし、歌を歌いながら、心の中でオニに呼びかけた。 ――血を捧げなくて、ごめんなさい。貴方が血を欲するのなら、幾らでも俺の血を上げます。  オニが笑った……ような気がした。  禍々しいカタチのオニの顔がぬっと近づく。口を大きく開け、ノズチの肩口に噛みついた。  痛みが走る。  体の中身を吸い取られていくのを感じた。  体が痺れる。太鼓の音が止む。声が掠れ、歌も消えていく。  もうこれ以上、声を発して歌うことも、太鼓を打つこともできなくなっていた。 ――ああ……俺はここでオニに血を吸い尽くされ、殺されるのかもしれない。でも、それで皆が助かるなら……  ノズチは、必死の覚悟を胸の内に固め、朦朧としながらも、自分の肩に食らいつくオニの背中を眺めていた。  オニの背に描かれた渦巻文様の刺青。  刺青は、ノズチの血の色を吸ったためか、徐々に赤く染まっていく。  そして、真っ赤になった刺青は、突然、にょろりと動き出した。まるで生きているかのように。  オニの体から、蛇と化した刺青が鎌首をもたげて起きあがる。ノズチは、一瞬、自分が幻を見ているのかと思った。  いつの間にか、オニもノズチの肩から顔を離している。  ノズチの前に、一糸纏わぬ裸体のオニが立つ。オニの逞しい体を、ノズチは呆然と眺めた。オニの体の刺青は、するするとオニの体から離れ、三十匹程の赤い蛇の姿になって、宙を飛んでいく。  ぎゃうううんっ! と、犬の悲鳴のような鳴き声。  赤い蛇達が魔獣の影に取り付き、締め上げていた。  蛇は夜闇の中で煌々と光を放ち、炎となる。狼の形をした影がめらめらと灼かれていく。  そうしている内にも、カンザル達がようやく石柱を元の場所に屹立させたようだった。 「気」が張りつめる。結界が成ったのだ。  魔の狼は、うおおぉぉ……ん、と最期に遠吠えを発し、そして、灰になって消えた。 「あれは……オニじゃなかった」  ノズチは、月明かりに照らされた石柱を眺めながらぽつりと呟いた。 「そうだ。我はあのようなモノとは違う」  涼やかな声が答える。はっとして顔を上げる。  そこには、オニの姿とは似ても似つかぬ、銀に光る白髪を靡かせたヒトがいた。  それは、ノズチが夢の中で幾度も目にしたことのある美しいヒトだった。 「待っていた」  その人は、ヒトの言葉でしゃべり、ノズチに柔らかく微笑みかけた。 「貴方は……オニなの?」  ノズチはおそるおそる尋ねた。 「ああ……美味い血であった」  形の良い唇には、もはや牙の痕跡すらなかったが、口元から頬にかけて血の滴がしたたっていた。美しいヒトの形を持ったオニは、舌を出して唇に付いた血をぺろりと舐めた。 「祈り場の結界が破れたため、山から魔のモノが降りてきてしまった。我は魔のモノからムラを守るカミ……だが、そのための力を解き放つことができなかった。我が選んだヒトであるノズチ……ぬしの血がなくては……」  オニは白く細い手でノズチの肩をそっと撫でた。  ノズチの肩の噛み傷が癒えた。  さらに、オニは、今はもう気を失っているモシキの傍にも屈み込む。背の傷にふぅっと息を吐きかけた。モシキの背の傷もたちどころに塞がる。  先ほど、魔の獣に傷つけられたムラの男も、何事もなく起きあがり、皆がどよめいた。 「我は、怒りなどしない」  オニはノズチを見つめた。やさしげな目だった。  ノズチは、魔のモノの所行をオニのせいだと考えてしまったことを悔やみ、恥ずかしくなった。  ノズチが、羞恥のあまり顔を上げられずにいると、オニがくすりと笑う気配がした。 「しかし、ぬしの血は美味かった。また、もらいにくるぞ」  オニの体から離れていた赤い蛇達が宙をうねりながら戻ってくる。オニの肌の上でとぐろを巻くと、元の刺青の文様となった。  オニの姿も、美しいヒトの形から再び異形へと変わる。  白い髪はざんばらになる。目は真っ赤になり、眼窩から飛び出す。口からは牙が飛び出した。  元の姿になったオニは大地を蹴り、飛ぶ。  オニの体は、星明かりに照らされてうっすらと白銀に輝きながら舞い、飛行した。山の奥の森へと溶け込むように去っていく。  カンザルも、ムラの男達も、呆気にとられたように、オニが去っていく姿を見送っていた。オニは、ノズチの前だけでなく、皆の前に顕現したのだった。  ノズチは、脚の間に太鼓を抱え直した。両の掌を反らし、無心に打ち鳴らす。  トォン、トントン、トトトト、トントントン、トトト……  太鼓を鳴らしながら、オニの去った森に向けて歌を歌う、声の限り。  モシキの歌うまじない歌とは、全く違うことば。全く違う旋律。  それは、ノズチの心の奥底から湧き出た、オニを送るための新しいまじない歌であった。 (了)  
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