断章 竜の手も借りたい

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 しばらくそんな日々が続いた。  僕の研究対象は海洋と竜であり、研究内容は九割以上が実地調査(フィールドワーク)だ。航海に出れば、四季の変遷を船の上で感じることもある。アイシャには本当に迷惑をかけているし、兄らしいことも全然してやれていない。  海と竜の研究、二足のわらじを履く理由はというと、外洋のことを一番知っているのが竜だからだ。竜はその強靭な体と翼で、遥か海の彼方まで飛び、また帰ってくる。彼らによるとそれはただの戯れにすぎないという。しかし、彼らが見た光景は、人間にとっては抜群の研究資料になる。現在の航海技術は、まだ竜の可飛行領域を抜けられていない。僕らの目下の目標は正確な海図を作ることであり、大陸以外の島嶼(とうしょ)の配置については、竜が最も詳しいのである。  ただし、竜はどちらの方向にどれだけ飛んだ場所に島があったか、などと親切に覚えていてくれるわけではない。竜は人には決して積極的に協力しない。したがって僕らが書く海図は、推論に推論を重ねた結果生まれる、危うい均衡を持った代物と言わざるを得ない。  大粒の雨の雫が窓を叩いている。雨風が強い日は実地調査はお休みだ。僕はだだっ広い海洋を、無数の雫がびしびし打つ様子を想像して物思いにふける。こういう日はペンが進む。僕は無心で、推定に基づいて場合わけしたいくつかの海図を書きあげた。達成感に浸りながら、なんとはなしにそれらを眺める。  円形の大陸。その海岸線の近辺には、たくさんの島が書き込まれている。これらはどの海図でも不変だが、外洋に目を向けると事情は一変する。この海図にある島が、こちらの海図では別の場所にある。この不確定要素を確定させるために、帆船(はんせん)の舵を沖へと向け、学者は大海原へ旅立つのだ。  ある海図の西の沖をぼけっと見ているとき、その神託にも似た発想は、僕の頭にどこからともなく訪れた。  その海図では、西の方に途切れた島の海岸線がいくつも浮かんでいた。そこは竜の飛行可能領域ぎりぎりで、竜たちも島の影しか見たことがないらしかった。これが全部同じ島の海岸線なら、この島は途方もなく大きいことになるなあ、まるで大陸だ、とぼんやり考える。 「大陸か……」  その呟きに意図はなかった。しかし、その単語の響きが僕の声帯を震わせ、部屋の空気を震わせ、鼓膜を震わせ、しまいには自分自身の思考をも震わせた。  直感がまばゆい火花を散らす。椅子にもたれかかっていた体をがばりと起こし、海図に噛みつかんばかりに目を凝らす。そんな馬鹿なことってあるだろうか。常識外れもいいところだ。  この世界に、“大陸がもうひとつある”なんて。  仮説を理性が打ち消そうとする。でもそうだ、それを確かめた人間は、まだ一人もいないのだ。  大陸。大陸! もうひとつの大陸――。  僕の心臓は早鐘(はやがね)を打っていた。熱に浮かされたようだった。体全体が、沸き返る興奮でめちゃめちゃになっていた。  何としてでも確かめねばならない。この仮説が盲信に変わる前に。僕は計算を始めた。船でそこまで到達できないかどうか。羅針盤を机の上に据える。島や海流や季節風を考慮に入れる。西へ進む最短距離、それが知りたい、どうにかして真実を――。 「兄さん」 「うわあ!」  至近距離からの唐突な呼びかけに驚きすぎ、僕は椅子ごと床に倒れこんだ。しこたま腰を打つ。なんて情けないんだ。  アイシャが申し訳なさそうな顔をして、僕を助け起こしてくれる。 「ごめんなさい、ノックもしたし声もかけたんだけど、返事がなかったから……。ご飯できたよ」 「え、ああー……そっか、全然気づかなかった。ごめんね」  またやってしまったな、と決まりが悪くなる。研究に没頭すると、周りの音が聞こえなくなるのだ。  アイシャはけれど腹を立てる素振りもなく、僕の机の上をしげしげと見つめている。そして、突っ立っている僕へと目線を移す。 「また航海に出るの、兄さん」  (きょ)を突かれて反応が遅れる。どうして分かったんだろう。僕は弱々しく首肯する。 「……実は、そのつもりなんだ。よく分かったね」 「兄さんが海図や羅針盤とにらめっこしてる時は、いつもそうだったから」 「そうか……止めないの、アイシャ」  僕は自分と同じ色の、アイシャの深い紫色の瞳を覗きこむ。顔も髪の色も性格もまったく違う兄妹ではあるけれど、虹彩だけは完璧と言っていいほど似た色をしていた。  学者だった父も母も、航海中に亡くなった。荒れた海で、大波にさらわれたのだ。僕は二人の最期を見ている。海に対して(おそ)れがないわけではない。でも、好奇心は畏れを飲み込み、僕を水平線のその向こうへと押し動かす。何度も航海に出る僕を、アイシャは黙って見送ってくれた。彼女の本心を聞きたいと思った。 「兄さんがしたいことなら、あたしは止めない」 「僕はずいぶん好き勝手してきたよ。それに今回は、今までより危険な旅になるかもしれないんだ。それでもいいのかい」  アイシャはうなずく代わりに、ポケットから山角錐の結晶を取り出す。  双宿石(アジスナイト)。僕の命の写し鏡。  それを掌に乗せ、胸の位置に掲げる。 「無事に帰ってきて。それだけでいい」  僕はぐっと唇を噛んだ。胃の腑あたりが熱くなる。  アイシャの言い分は、約束できる類いのものではない。きっと彼女だって、それぐらい承知のはずだ。分かりきっているはずだ。であるならば、僕が返すべき言葉はひとつしかない。  妹の手にきらめく結晶ごと、その小さな掌を自分の掌で包む。 「絶対に帰ってくるよ。約束する」  アイシャは優しくはほえむ。  僕は己の宣言を、強く心に刻んだ。  ひたすら西を目指すだけならば、帆船でもなんとか大陸とおぼしき陸地までたどり着けるのではないか。それが非常に面倒な計算を経て得た僕の結論だった。  しかし、航海は僕一人ではできない。船が要る。船員が要る。食糧も要る。そのための手続きは煩雑だ。  研究資金をかき集め、手配できるうちの最大の帆船を用意してもらう。乗船を頼み込んだ船員も学者も、自分が立っているこことは別に大陸があるかもしれない、などというぶっ飛んだ僕の着想には猜疑的(さいぎてき)だった。鼻で笑って取り合わない人も少なくなかった。何人かは気でも()れたのかと眉をひそめた。どう思っていてもいい、乗ってくれるだけでいい、と僕は極限の極限まで食い下がった。  船員の頭数(あたまかず)を揃えるのに丸まるひと月。ありったけの食糧を積み込み、出航する日は、よく晴れた穏やかな海路日和だった。  隣街の港には、アイシャも見送りに来てくれた。その表情には期待や心配や緊張がない()ぜになっていた。妹が大きく手を振るのへ、僕も力の限り振り返す。(いかり)が抜かれると、アイシャの姿はみるみるうちに小さくなっていった。  いつまでも陸地を眺めていると、割と手加減なく肩を叩かれる。そこをさすりながら振り向くと、海の男特有の勇猛な笑みを浮かべ、船員のカイという青年が仁王立ちしていた。短髪をバンダナで覆っている。彼は持ち主から船の管理を任されていて、過去の航海でも何度も世話になっていた。 「よお、エイミール船長。感傷に浸ってる暇はないぜ、さっさと指示を飛ばしな。“船頭多くして船山に登る”とは言うが、船頭がしゃんとしてなきゃ船はあっという間に座礁だぞ。可愛い妹ちゃんの前でな!」  船長と呼ばれ、そういう場面でもないのだけれど、僕は照れた。これまでの航海では船長を務めたことはない。そういえば、近海では海賊も出るのだった。僕は気を引き締める。 「ああそれと、自分のゲロは自分で始末しろよ、船長」  カイがぽんと僕の背中を叩く。  ふと思い出した。どうして忘れていたのだろうか。  僕は、ひどく船酔いするのだ。  船酔い、という単語が頭に閃いた途端、頭の先の方から血がさーっと引く。逆に、ぞわぞわとした寒気が足元から昇ってくる。  まずい、と思った僕は船の(へり)へ駆けていく。 「おおい、船長、指示はどうしたよ!」  カイの大声が後ろから飛んでくる。彼がからっとした笑い声をあげると、僕以外の船員みんながどっと笑った。   「に……西に……全速力で……」  僕はへろへろしながらなんとか絞りだす。こんなに面目が立たない船長がいまだかつていただろうか。カイは僕の代わりに船員を見回し、大音声(だいおんじょう)を張る。 「総員! 西を、全速力で目指せ!」 「アイアイサー!」  地鳴りのように、乗員が応えた。  船の帆が大きく風を(はら)む。舳先(へさき)が青く輝く大海を割る。へたり込む僕の周りを、野太い声が取り囲む。  未知なる陸地を目指す大いなる航海は、かくして始まった。
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