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「小娘、無事か」
そして果たして、目の前に現れたのは他ならぬジーヴだった。
服は切れても穴が空いてもいない。本人も至って普通の様子で、息ひとつ、声色ひとつの乱れもない。あまりにも平然とした登場に、かえってあたしは拍子抜けした。
「……これが無事に見えるのか」
「命あればこそ、そこに希望は生まれる。口が利けるなら大事ないようだな、とにかく脱出するぞ」
「逃げたいけど、鍵がかかってるんだって」
「ふむ、そうか」
何でもなさそうな口調。竜の御仁は柵をしっかと握り、力をこめる。それだけで、あたしの腕ではぴくりともしなかった金属の棒が、やすやすとたわんで抜け道を作った。
次元の違いに、呆れ果てるしかなかった。
「どうした。立てるか?」
ジーヴが牢のなかに入ってくる。明かり取りからの逆光が途絶えて初めて、彼の額に傷があることに気づいた。深くはなさそうだが、かなり広範囲にわたっているため、それなりの出血量だ。顔の三分の一ほどが赤黒く染まっている。
おでこへ手を差し伸べ、怪我してるじゃないか、と呟くと、ジーヴはからからと快笑した。
「なあにこれしき、かすり傷よ」
「どこが。……どうせまた腕力に頼ったんでしょ」
「何を言う。今回は頭を使ったぞ。城壁に頭から突っ込んでぶち破ったのだ。心配は要らん、何せ俺は石頭だからな」
「……“頭を使う”の意味が違うから」
本当に滅茶苦茶だなと思う。ただ、あたしはその滅茶苦茶に救われたのだ。今回は心の底から、ジーヴに感謝しないといけないだろう。
隻眼を見つめながら、あたしは疑問をぶつける。
「どうして助けに来たの、ジーヴ」
「勘違いをしてもらっては困る。俺はお前を助けに来たのではない。俺の非常食を取り返しにきたのだ。ああそれと、この怪我でお前が気に病むのもお門違いだぞ。俺は俺のしたいようにしているだけだからな」
どこか朗らかに言い募り、ジーヴはくっくっくと笑う。少しくらい恩着せがましくしろよ、調子狂うな、と内心で八つ当たりする。でも胸がつっかえて言葉にならない。目頭が熱くなる。
「……あんたって、本当に馬鹿だな」
「馬鹿ではないぞ、竜だ」
「知ってるから……」
「? おい小娘、目から水が流れているぞ。どうしたんだ」
「うるさい黙れ見るな」
不躾な竜に背を向け、袖口でぐしぐしと涙を拭く。本当に馬鹿だ。本当に、あたしは馬鹿だ。
そうこうしているうち、遠くでばらばらという足音がした。人の怒声もする。どうやら騎士団の第二陣が到着したようだ。油を売っている場合じゃない、さっさと脱出しなければ。
「行こう、ジーヴ」
「先刻からそう言っているだろう」
城の廊下、立派な絨毯の上に、ジーヴにのされた騎士たちが累々と横たわっていた。皆息はある。あんたたち、竜が無用な殺生を嫌う生き物でよかったな、と毒づきながら城を走り抜ける。
追っ手はどこから湧いて出たのかと思うほど数が多かった。人数がいると面倒だな、火でも吹けたら好都合なんだが、と銃弾を防ぐためにあたしの後ろを走るジーヴが、本気か冗談か知れぬ言葉を紡ぐ。
後ろから飛ぶ指示に従って足を動かすうち、嫌な予感が胸を覆いはじめた。もしかしなくても、城の上部へ追いつめられている気がする。上階にはもちろん出口はない。行き止まりになったら、そこでお仕舞いだ。
あたしの息が上がってくる。ここまで来て、袋の鼠になって最期を迎えるなんてごめんだ。
終焉は割とすぐに来た。
右、とジーヴに言われて曲がった先は、正面に青系のステンドグラスが嵌められた袋小路だったのだ。焦りで顔から汗が噴き出す。
「ジーヴ! 行き止まりだぞ!」
「そのまま進め」
泰然とした声が返ってくる。そのままってなんだ、進めってなんだ、行き止まりってことはもう進めないんだぞ馬鹿言うな、と振り返って抗議しようとした、その刹那。
ジーヴの逞しい腕が後方から伸び、がっしりとあたしを抱えあげた。
急に訪れたふわっとした感覚に脳が混乱する。地面を失い手持ち無沙汰になった足が、中空をかいた。
陽の光を受けて美しくきらめくステンドグラスが、急速に近づく。もう目前だ。
「え、待ってジーヴ、ぶつかる……!」
ジーヴは当然、待たなかった。
そのままの勢いで、あたしたちはガラスをぶち破った。幅広の肩をぶつける直前に、ジーヴは長い黒衣であたしの体を庇う。ガラスが粉々に砕け、破片はきらきらと周りを彩り、舞う。まるで細かい氷の粒みたいに。
そして、足の下には何もない。
丘の上にある城の、ほとんど最上階から飛び出したのだ。景色がミニチュアに見えるほどの途方もない高さだ。ここから地面に叩きつけられたら、命がないどころかぺしゃんこだ。
勢いを失い、重力方向へと、あたしたちの体が落下を始める。
内蔵が浮かびあがるような不快な感覚。生来体に備わった恐怖心が、このままでは死ぬ、と雄叫びをあげる。うわあああ、と知らずあたしは叫び、力一杯目を瞑る。
永遠にも等しい数秒。
体が、ふっと軽くなった。怖々と薄く目を開く。景色がものすごい速度で後ろに流れている。あたしは、竜型へと変じたジーヴに抱えられ、とてつもなく広い空間のど真ん中を飛翔していた。
そう、まるで、自分が飛んでいるみたいだった。
騎士たちの魔の手などもう届くはずもない。
翼を力強く羽ばたかせ、ジーヴはぐんぐん加速していく。彼の背には何度となく乗っているけれど、そうすると景色の六割ほどは竜の体で隠れてしまう。ところが今はどうだろう。
地平線のその向こうまで、眼下に遙々と展開する大パノラマ。
あのかわいらしい街並みも、あの豊かな草原も、陽の光にきらめく川辺も、遠くに青々と立ち並ぶ山だって、この光景すべてが自分のものだと感じた。だってこんなにも手が届きそうなのだ。
耳元で風が唸り、歌う。目が潤むのは、冷たい空気がぶつかるからではない。これがいつもジーヴの見ている景色。なんて壮麗な、なんて美しい、なんて雄大な、圧巻の情景。あたしは今、彼をとても羨ましく思う。
「すごい、すごいすごい!」
太く力強い腕のなかで、あたしは子供にかえったようにはしゃいだ。どうせジーヴ以外聞いてもいない。あたしの歓声に応えてか、堂々たる黒竜が、雄々しい空の王が、雷鳴のような咆哮を轟かせる。
あたしにはそれが、彼の笑い声だということが、なぜだかはっきりと分かった。
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