二章 竜子にも衣装

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 燃え落ちる陽が、山の白い頂を赤く染め上げる。  少しでも必要だと思ったものを手当たり次第に買っても、換金で得た金貨は半分も減らなかった。しこたま買い込んで荷物が膨れ上がったことの方が問題で、宿へ一歩近づくごとにあたしの体が(きし)んだ。ジーヴはあたしより遥かに力があるくせに、絶対に手伝おうとしない。最初から期待もしていないが。素知(そし)らぬ顔で、悠然とあたしの半歩先を行く。  大通りを抜けると、路上に直接麻を敷き、雑貨を売る店が道の両側に整然と続く。そこを過ぎゆく途中で、あたしははたと足を止めた。アクセサリーが雑多に並んだ店。その中で一際目立つ、(ます)の身に似た鮮やかな色の首飾り。  珊瑚(サンゴ)だ。  あたしはその、普通地上ではお目にかかれない色を知っている。今は行方不明の兄が、かつて珊瑚をくれたことがあったのだ。成形されたアクセサリーなどではなく、ただ磨いただけの、小さな珊瑚の欠片だったけれど。大切に引き出しに仕舞っていたそれは、きっとあの夜、あたしの左腕とともに焼けて跡形もなく失われたのだろうと思う。  兄は船乗りだった。漁師というわけではなく、王立学術協会(アカデミー)から資金提供を受け、海洋調査をしていた。そして同時に、兄は竜の研究者でもあった。  竜と海。二つの関連があたしには見当もつかない。兄は多くを語らなかった。仕事についてあたしが尋ねると、兄はいつだって困り顔で笑うのだった。だから、あたしもそれ以上は聞かなかった。 「それが欲しいのか、小娘」  ジーヴの低い声にはっとする。  立ち止まるあたしに構わず先へ進んでいた竜は、隣がぽっかりと空いていることに気づき、仕方なく引き返してきたらしい。 「珊瑚か。綺麗だな」 「……竜も何かを綺麗だと思うことがあるんだ……」 「当たり前だろう。でなければこんなものを耳にぶら下げたりはしない」  ジーヴは鋭い爪が生えた指で、自分の左耳を指す。そこには、何かの獣の牙を模した耳飾りが揺れている。 「金ならば有り余っているのだろう。欲しいなら買えばよいではないか」 「……別に、ただ綺麗だなと思って見ていただけ。持っていても、使う機会もないし」 「くくく、確かにな。お前の場合見せる相手といえば、動物の死体くらいのものだからな!」 「……」  あたしがじっとりと()めつける先で、さも愉快そうにジーヴが体を揺らした。  宿の素晴らしくふかふかな寝床の上で、兄の夢を見た。  兄からまた珊瑚を貰う夢。  兄が柔らかい前髪を揺らして、同じくらい柔らかく笑う。アイシャ、と優しくあたしの名を呼び、彼が両手に持ったものを、あたしの掌に握らせてくれる。それはいつかの珊瑚の欠片ではなく、露店で見た華やかな首飾りだった。  窓辺で小鳥が歌っている。  あたしは寝床から起き上がり、ぼんやりと窓の外を一瞥(いちべつ)する。まともな場所でたっぷり寝たというのに、気分はあまりよくなかった。人捜しの成果がまったく得られなかったことでもなく、あの首飾りを夢に見るまで記憶にひっかけている自分が、どうしようもなく女々(めめ)しく思え、腹立たしかった。  顔を洗い、服を着替え、階下へと降りる。宿の一階は食堂になっていて、代金さえ払えば宿泊客だけでなく誰でも利用できることになっていた。食堂のカウンター席に、見慣れた大きい背中がある。  ジーヴは朝っぱらから、鶏の丸焼きと子豚の照り焼きをがつがつと食らっているところだった。しかも骨ごと。  その様子だけで胃もたれがしそうで、うんざりする。あたしは彼の隣に腰を下ろす。 「あんたの食事を見てると食欲が失せるな」 「見なければよいだろう。なんだ、猟師に追い詰められた野兎(ノウサギ)のような顔だな、小娘。ひどいものだ」 「うるさい黙れ」  首飾りの件を引きずっているなんて明かせず、ぶっきらぼうに言い返す。あたしは寝起きが悪いのだ。  あたしは朝食として、ライ麦パンと赤カブのスープ、それと果物の甘露煮を注文する。自分で食材を調達しなくても、自分で調理をしなくても、言葉ひとつで料理が出てくる。なんとありがたいことか。あたしの機嫌はそれだけで少し上向いた。 「腹は膨れたか。お前に渡したいものがある」  食事を終えると、なぜか部屋に戻らず留まっていたジーヴが切り出す。黒い上着の内側をごそごそやり、 「お前にこれをやろう」  そこから出てきたのはあの、文字どおり夢にまで見た、珊瑚をあしらった首飾りだった。  呆然とする。どうしてそれがジーヴの手の中にあるのかが分からない。夜遅く宿から抜け出すか、朝早く起きて出かけるかして、わざわざ店を探して(あがな)ってきたのか。何のために?  混乱しながら、機械(からくり)みたいなぎちぎちとしたぎこちない動きで、首飾りを受け取る。 「どういう風の吹き回し」  呟く声は意図せず震えた。  竜からこんな贈り物をされるなんて、気味が悪いことこの上ない。天変地異の前触れだろうか。  ジーヴは普段と変わらぬ顔色で、呆れたとばかりに嘆息する。 「人間は後悔が好きな生き物だからな。どうせ後になって、あの時買っておけばよかったかもしれないと気に病むに決まっている。どうしようもないことで悩まれて、狩りの精度が落ちてはたまらん。理由ならそういうことだ」 「しかし、こんなもの持っていたって――」 「受け取ったなら、それは既にお前のものだ。身につけるなり捨てるなり売り飛ばすなり、お前の好きにするがよい。俺は何も口出しはしない」 「……」 「竜の旦那、何もパートナーに贈り物をするのに、そんな言い方しなくたっていいんじゃないですかい」  それまで沈黙を保っていた、カウンターの奥の料理人の男が、おずおずと口を挟んだ。 「こいつはパートナーなどではない。ただの俺の、非常食だ」  ジーヴが胸を反らして答えると、料理人はおやおや困ったなこれは関わらない方がよさそうだなという顔をした。  あたしは首飾りを見つめる。すごく、綺麗だ。ナイフや手綱(たづな)や槍ばかり握り、いつも動物の血や泥にまみれているあたしの手にあっても、朝の陽射しの中で、珊瑚は美しく輝いて見えた。  あたしはそれを、自分の首へかける。  あたしの姿を、ジーヴがつくづくと眺める。  そして、微笑んだ。 「……なんだ」 「いやなに、竜子にも衣装、とはこのことだと思ってな!」  失礼極まりない黒竜の元族長は手を打ち、腹を抱えてからからと大笑した。  頭に血が昇って、かっと顔が熱くなる。 「馬鹿にしたかっただけか、あたしのこと!」 「だけではないぞ、そういう狙いもあったことは否めんがな」 「性根(しょうね)の曲がった竜め、こんなもの捨ててやるからな」 「それで俺が傷つくとでも? そう考えているなら、至極浅はかだと言わざるを得ないな、人間の小娘よ」 「……ッ」  憤りで(はらわた)が煮えそうだ。一瞬でも感傷に浸ったあたしが馬鹿だった。  乱暴に椅子から下り、かつかつと靴音を立て、出立の準備のために部屋へ向かう。ジーヴの含み笑いが階段まで着いてくる。  外した首飾りを、細々としたものを入れる袋へと無造作に突っ込む。脳の中では、ジーヴの哄笑(こうしょう)が延々と再生され続けている。  このままで終われるもんか、とあたしは自分の心に誓う。反骨心(はんこつしん)だけは人一倍持っている自負がある。旅が終わるまでには、人を食った竜に、目にものを見せてやりたい。  その日、ジーヴの鼻を明かしてやる、という目標の他に、ジーヴに一杯食わせてやる、という目標が加わった。
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