三章 触らぬ竜に祟りなし

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三章 触らぬ竜に祟りなし

 夜、森の中で、赤々とした焚き火に照らされながら、狩りに使う道具の手入れをする。  炎の光の助けを受けて、木の棒の先端を削る。尖らせた先に毒を塗り、狩りに使うのだ。枝を股に挟んで固定し、ナイフを振るう。シュッ、シュッ、シュッ、とリズムよく。  火に(あぶ)られた何かがぱちぱちと爆ぜる音。  鼻をくすぐる木の焦げる匂い。  火は好きだ。形の定まらない高温の揺らめきを見ていると、懐かしいような、安心するような、そんな不思議な気分になって、落ち着くから。けれどあたしは、人の手を離れ、制御が利かなくなった炎がどれだけ恐ろしいか、身をもって知っている。  毒槍の本数はだんだんと少なくなってきていた。夜が明けたら、ドクトカゲを探しに出かけなければならないだろう。共に旅をしている竜のジーヴは、いつになく機嫌が良かった。焚き火の炎の中に無意味に枯れ枝を投げ込んだり、不思議な旋律の歌を口ずさんだり。人間の何十倍、何百倍も生きているくせに、やけに子供っぽいことをする。  今日は仕掛けた罠に大きなイノシシが二頭もかかった。規格外の竜の胃袋を満たすのにも充分だったに違いない。二人旅を始めてもう半年経つ。行方不明の兄の消息はいまだ掴めないが、あたしの狩りの腕前と手法の豊富さは、着実に進歩しつつあった。それを喜んでいいのかどうか、判断はつきかねた。  少し離れた倒木に腰かけるジーヴの鼻歌に耳を傾ける。穏やかで少し哀愁を帯びた、深い森を思わせる曲調。こんな夜にぴったりだ。竜の世界にも歌があること。それがなんだか不思議に思えた。  不意に、その旋律が途絶える。あたしは構わず、木を削り続ける。  (かて)のための静かな時間は、おい小娘、という無粋な声で破られた。あたしの没頭に割って入ったジーヴが、いつも通りの尊大な調子で続ける。 「ちょっとこっちに来い、背中を虫に刺されたようだ。具合を見て、膏薬(こうやく)を塗ってくれ」  あたしの意思なんて考慮する気もない、高慢な物言い。彼に聞こえるように盛大にため息をつき、そちらを振り向く。そして、目を見張った。  ジーヴは上着をすべて脱いで、筋肉質の上半身を夜気に(さら)していた。ゆらめく焚き火の灯りが、その隆々と盛り上がった体の表面に、深い陰影をつくりだしている。早くしろ、と青を(たた)えた隻眼があたしを急かしている。  自分の頬がかっと熱くなるのが分かった。慌てて彼の剥き出しの肌から目を逸らす。 「なっ、なにいきなり変なもの見せてるんだ! はだ、裸とか……っ」 「変だと? 相変わらず失礼な奴め。だいいちこれのどこが裸なんだ」 「うう……兄さんの裸だって見たことないのに……」  ちらりと横目で様子を伺うが、ジーヴが服を身につける気配はない。  それどころか、こちらをじっと見つめてにやりと意地悪く笑う。 「なんだお前、生娘(きむすめ)か。存外に初々しいな」  繊細さが圧倒的に足りていない竜の男は、不躾(ぶしつけ)にそう言い放った。あたしの顔が、今度は怒りで熱を持つ。 「はあ……!? 結婚もしてないのに、当たり前だろ……!」 「人間の貞操観念には興味がない。早くしろ」 「ああ、もう……」  あたしの動揺などどこ吹く風、ジーヴは涼しい顔のままだ。あたしは観念した。このままでは、いつまで経っても彼は上着を着ないだろう。  膏薬を袋から出し、裸身がなるだけ視界に入らないようにしながら、泰然と待ちの姿勢を保つ不遜な竜に歩み寄る。ジーヴの背中は大きい、というよりも広かった。自分の兄さんとは比べものにならないくらい。けれど、人間の背中と見た目は何も変わらない。  あたしは人間で、ジーヴは竜。  それは決定的な違いだが、人型になった竜は、外見だけは確かに人間とさほど変わらない。爪と耳の先が細く尖っていて、口を開けば鋭い牙が覗く。差違はそのくらいだ。  どうして竜は人に似ているのだろう、という問いがふと浮かんでくる。  どうして、犬でも猫でも馬でも鷲でもなく、他でもない、人間なのだろう?  薬を塗り終え、終わったよ、と声をかける。 「うむ」  とだけ答えてジーヴは黒衣を纏い直す。どうしてこの竜はありがとうの一言も言えないのか。憤然としながらあたしは持ち場に戻った。  ジーヴがまた歌い始めるが、先ほどの疑問が頭から離れない。あたしは思いきって訊いてみることにした。 「竜はなぜ、人型になれるの」  疑問を口にすると、ジーヴは鼻歌を中断し、真っ青な片目をあたしに向けた。もの悲しい調べの代わりに聞こえてくる、葉が擦れるさわさわという音。宝石のかけらを暗い水底にちりばめたような夜空の下、彼の瞳だけが真昼間の青空みたいに鮮やかだった。  ジーヴは気分を損ねた風もなく、体ごとあたしに向き直る。 「他の動物ではなく、なぜ人を選んだのか、と聞きたいのか? そんなことは知らんよ。ご先祖様に聞くしかないが、そのご先祖様はもういないのでな」  予想した答えではある。素直に分からない、と言えないのが竜らしいところだ。  ジーヴはお得意の胸を張る姿勢をとり、後を続けて滔々(とうとう)と言い募る。いつにも増して饒舌だ。 「竜が人間を真似たのか、竜の別の姿を人間が真似たのか――それはつまり、神が作りたもうたは竜が先か人間が先か、そういう問いになるだろう。そんな議論に意味はない。太古の出来事を知ることなど不可能なのだからな」 「でも、姿を変えられるからには何か意味があるんでしょう」  あたしは食い下がる。気になったら納得できるまで満足できない。諦めが悪い性分なのだ。  この好奇心の強さは、きっと血筋なのだろうなと思う。一人きりのきょうだいである兄も、自然への好奇心が高じて、ついには学者になった。その好奇心がなかったらあるいは、兄が失踪することはなかったかもしれない。なんとなく、あたしはそう思っている。  好奇心が猫を殺す、と言ったのは誰だっけ。  ジーヴが、ああ、と鷹揚(おうよう)に頷く。 「この姿は生殖用だ」 「は……?」  さらりと放たれた言葉。あたしは凍りつく。  ゆったりした居心地のよい夜がぶち壊しだ。  ジーヴは顔色ひとつ変えず、なんでもないことのように続ける。 「もともとこの姿は、竜の雄と雌が出会って交尾するときのためのものだ。竜のままでは、爪や牙や棘でお互いを傷つける恐れがあるからな。――なにを呆気に取られている。そんなことも知らなかったのか? やれやれ、世間知らずな小娘の教育係を買って出た覚えはないんだがな」 「……聞かなきゃよかった……」  あたしはげんなりして項垂(うなだ)れた。人の姿はつまり、そういうこと(・・・・・・)専用というわけだ。目の前にいる男のあれやこれやを想像しそうになり、頬が熱くなりかける。反して肩のあたりがぞわぞわした。その寒気を右腕でさすって振り払う。  ジーヴは涼しい顔で小首を傾げている。 「生殖用の姿がなぜ人間なのか、確かに言われてみれば不思議ではあるな。考えても(せん)なきことだが。ちなみに、この姿でなら人間とも交われるようだぞ」 「そんなことは聞いていない!」  あたしは叫び声一歩手前の悲鳴を上げた。何なのだこの男は。どうしてしれっと、大地を揺るがすような問題発言ができるのか。  あたしが身を引くと、ふざけた竜の口が意地悪く弧を描く。     「見かけによらず初心(うぶ)だな、お前は。――あまりそう警戒するな。この姿で過ごしているのは、こちらの方が体力を温存できる、それだけの理由だ。他意はない」  そうのたまって、からからと笑う。  しばし凄味のあるジーヴの面立(おもだ)ちを睨んでいたあたしは、ある可能性に気づいた。 「でも、その、こう……ができるってことは、竜と人間の子供も生まれ得る、ってこと」 「そういうことになるな」  あっさりと肯定され、あたしは押し黙る。今までそんな話は聞いたことがなかった。  竜と人間の混血。  それはなんだか、信仰心の薄いあたしにも、誤って神の領域に踏み入れたような、悪魔の支配する領地に迷い込んだような、うすら寒い感情を呼び起こす概念だった。  そこにいる竜の表情は曇っている。 「竜と人間が、種族を超えて愛し合う。通常ならばあってはならぬことだ。しかし、例がないわけでもない」  さも恐ろしいと言わんばかりに、ふるふると首を振って、 「不幸なことよ。当人たちにとっても、子にとってもな。愛情は月日を超えられない。竜と人間が生きる時間軸は、まったくの別物だ。時の流れは、無情に竜と人間の仲を引き裂く。そして竜でもない、人間でもない子供は、どちらの集団にも馴染むことができない。先天的で、絶対的な孤独を背負うことになるのだ」 「……まるで身に覚えがあるみたいね」 「気になるか?」 「別に」  本当は気にならないこともなかったけれど、ジーヴの沈んだ瞳を見ていたら、それ以上踏み込んではいけないと胸が騒いだ。  隻眼の底にちらつくのは、慈しみと物憂(ものう)さ。過去も未来も、あらゆるものを超然と見はるかす静謐(せいひつ)。見たことのない顔つき。  あたしはその時、自分とこの(ひと)は絶対に相容れない存在なのだと、強く感じた。  ジーヴは微笑む。 「だから忠告しておこう、人間の小娘よ。どうか俺に、惚れてくれるなよ」 「……誰があんたみたいな男に惚れるもんか」 「そうか、ならいい」  ふんと鼻を鳴らして突っぱねると、ジーヴは安心した様子であたしから目線を逸らした。  彼が鼻歌を再開する。  細く頭上へ伸びていく旋律が、星空に溶けていく。その光景が、見えた気がした。
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