零章 苦しい時の竜頼み

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 一陣の旋風(つむじかぜ)が起こり、やむ。するとそこに立っていたのは、見上げるほどの長身の、夜と同じ深みの黒を(まと)った偉丈夫(いじょうふ)だった。顔立ちも雰囲気も野性的なのに、どこか気品を漂わせてもいる。 「竜は人助けはしない」  重々しい口調で、竜は簡潔に答えた。  やっぱり駄目か、と落胆する。でも、人の姿になったということは、少なくともこちらの話を聞くつもりはあるんじゃないだろうか。  あたしはひとつひとつ言葉を選ぶ。 「なら――一方的に手を貸せとは言わない。あたしがあんたの右目になる代わりに、あんたはあたしの左腕になる。等価交換ってわけ。それでどう」  竜の男は瞑目する。しばらく思案する様子を見せる。開眼ののち、口元に不敵で獰猛な笑みが浮かんだ。 「人間が竜である俺に取引を打診するか。なかなか肝の据わった小娘だ。面白い」 「……なら」 「――よかろう。その契約、受けてやろう」 「……良かった」  張りつめていたものがどっと緩む。精神が弛緩(しかん)してから、自分が緊張していたのが分かる。全身から力が抜け、安堵と引き換えに、体の自由を失う。もう指先ひとつ、動かせそうになかった。 「おい、取引を交わした途端に死ぬつもりか」  ため息とともに呆れ声を吐き出しながら、竜がしゃがんであたしを抱き起こす。 「まずその血をどうにかしないと死ぬぞ」 「分かってる……」 「分かっているだけではどうにもならんのだ、()れ者が」  厳しい語調に反し、竜は迷うことなく自分の上質な衣服を尖った歯で引き裂いた。細割(ほそざ)きにした布を手際よくあたしの傷口に巻きだす。あたしは意外に思いながら、彼の動作をただ眺めていた。 「これで助からなかったら、生きようとするお前の意志が薄弱だった、ということになるのだからな」 「……あたしはお前じゃない、アイシャ。あんたの名前は」  釘を指す男の言葉。それには答えず、無愛想に問う。  無知な奴はこれだから困る、と言わんばかりに、竜があからさまにふんと鼻を鳴らす。   「人の名など覚えるに足りん。それに、竜の名は人間には発音できんのだ。お前の好きに呼ぶがいい」 「それなら、ジーヴと……そう呼ぶよ」  呟いたあと、ジーヴと呼ぶことに決めた契約相手の(たくま)しい腕の中で、あたしは気絶に近いまどろみに落ちていった。  阿鼻叫喚の夜の後でも、変わらず夜明けは来た。  朝日はいつものように真新しく、徐々に白んでいく空は清々しく、すべてはまっさらだった。けれど風には焦げ臭さの名残が混じり、変わり果てた街は覚めることのない悪夢として、そこに沈黙していた。  傷の痛みに歯を食いしばって耐えつつ、どこが何かも分からなくなった街を歩く。残念ながら、街には生存者はいないようだった。  兄はどこに行ったのだろう。  街の中で、ひときわ炭化度がひどい場所を見つける。そこだけは、何が存在していたのか明白だった。  図書館だ。広大な床面積を誇っていた図書館は、骨組みを残して見るも無惨に跡形も無くなっていた。本の一冊すら残すまい、という邪悪な執念が伝わってくるほどだった。  この街には昔から、王立学術協会(アカデミー)に所属する学者が多数住んでおり、図書館は学者の要請に従って増築を繰り返し、巨大化していったという。兄もその学者の一人で、昨夜も文献を探すために図書館に(おもむ)いていた。しかしこの有り様では、手がかりが残っている期待は持てそうになかった。  炭になった何かの上に腰を降ろす。海から吹いてくる潮風が、つんと鼻を刺した。  街は海から切り立つ崖の上にあって、少し内陸に入ると豊かな森が広がっている。さらに奥には、皿に似た地形のくぼんだ草原が広がっており、黒い鱗を持つ竜たちがうようよしていた。ジーヴもそこから出てきたのだろう。研究の対象には事欠かない立地だった。  訳も分からないまま亡くなっていった人たち。彼らのことを考えると、胸が締め付けられる。どんなに無念だっただろう。どんなに苦しかっただろう。とめどなく涙があふれてきたけれど、自分が今泣いていても何の意味もない、と目元をぐいと拭って立ち上がる。  歩きながら、兜の隙間から覗いた双眸を思い出す。あれは、確かに魂の宿った人間の目だった。自分と同じ人間が、こんな(むご)たらしい殺戮を行い得るなんて信じがたかった。しかし、これが現実なのだ。  二、三日は廃墟と化した街の脱け殻に留まっていたが、兄はもう近くにいないのでは、という予想は次第に確信に変わっていった。あたしはある決心をした。  森の合間で、罠にかかっていた兎を見つける。それをジーヴに手渡すとき、話を切り出すことにした。 「ジーヴ。あたしは旅に出ようと思う。兄さんが行方不明なんだ。兄さんを捜したい」  兎を受け取ったままの格好で、ジーヴは一度、ゆっくりと瞼をしばたかせる。 「ふむ。で?」 「あんたにも着いてきてほしい」  一笑に付されることを覚悟の上で、あたしは単刀直入に言い放った。  予想と異なり、ジーヴはくすりとも笑わなかった。あたしの目を、ひとつだけ残った青が鋭く射抜く。 「なぜ人間のお前に、竜である俺が協力せねばならんのだ――と言いたいところだが、実をいうと俺も捜したい者がいる」 「え……そうなの」 「俺の一族は、お前の街が焼かれたのと同じ夜に滅んだ」 「は?」  脈絡も突拍子もない言葉が返ってきて混乱する。  滅んだ? 頑強な体と、長大な寿命を持つ竜が? そんなことがあり得るのだろうか。  ジーヴが、鋭い爪の生えた指で森の奥を示す。 「この向こうの平原に、黒竜が住んでいたのは知っているだろう。俺はその黒竜の部族の(おさ)だった。あの晩――敵意を持った何者かが集落に忍び込んできて、俺以外の一族を滅ぼした。俺も右目から光を失った。竜は夜目があまり利かんし、気温が下がると動きが鈍くなる。そこを狙ったのだろう。卑劣な奴らだ」  語り口はあくまで静かだ。しかし、ジーヴの左目の中には、激情としての青白い炎が燃え盛って見えた。  竜は、この大陸で一番の膂力(りょりょく)を誇る生き物だ。彼らの雄々しい姿を見たら、どうこうしようなんてとても思えないし、手出しできる生き物がいるとも思えない。しかし、右目の視力を失ったジーヴは、まさに事件の生き証人なのだった。 「街が焼かれたのと同じ夜に……無関係とは思えないけど」 「俺もそう考えている。だが推論の材料が何もない。今は何とも言えん」 「――それにしても、竜が殺されるなんて……信じられない。本当に、黒竜はあんたしか生きていないのか」 「竜は嘘をつかない。人間と違ってな」 「……それじゃ、捜したいのって、その犯人なの」  黒竜の集落にそっと侵入した何者か。  それが人間なのか、同胞たる竜なのか、はたまた別の生き物なのか、それは分からない。しかし、その凶悪な姿を明るみに(さら)した何者かが、ジーヴの爪と牙で八つ裂きにされ、血祭りに上げられる。そんなひどく鮮明な光景が脳裏に浮かぶ。  けれど、ジーヴはかぶりを振ってあっさりと否定した。 「そんな者を探してどうする。見つけて腹にでも収めるか? そんなことをしても、死んだ者は還らない。竜の中に、人間が持つような憎しみという感情はない。竜は常に、前方だけを見据えている」 「じゃあ、誰を」 「黒竜の一族の生き残りだ。探せば大陸には別の黒竜の集落があるかもしれん。俺は同族を見つけたい。そして俺は、我が一族を復興させる」  迷いの一切ない口調で、ジーヴが言いきった。あたしは彼の、まっすぐな視線に圧倒された。  一族の仲間と、自身の右目。全てを失ってなお、その碧眼は強く輝いていた。  ジーヴが持っていた兎をそこらに放って、仁王立ちする。   「取引の内容を変更しよう。お前は俺の右目となり、俺はお前の左腕となった。そしてこれから、お前は兄を捜すため、俺は同族を捜すための、いつ終わるか知れない遠路へ旅立つ」  あたしはジーヴに気圧(けお)されないよう見つめ返し、深くうなずく。 「着いてきてくれる」 「逆だ。俺がお前に着いていくのではない。お前が俺に、着いてくるのだ」 「どっちでもいい。いつまでになるか分からないけど、これからよろしく。ジーヴ」 「せいぜい俺の足手まといにならんよう励めよ、小娘」  傲岸不遜な竜の男は、胸を反らして高らかに旅路の始まりを宣言した。  あたしは無論、彼に手を差し出すなんて愚行はしなかった。無駄なことだと分かっていたから。  これ以上失うものなど何もない。澄みきった空に陽はきらめき、あたしたちの行く手を照らしていた。  それがあたしとジーヴの、旅の始まりだった。
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