一章 情けは竜のためならず

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一章 情けは竜のためならず

 ごおっ、と耳のそばで風が唸る。  鮮やかな緑色の平原を駆け抜けていく鹿の群れ。白くかわいらしいお尻がめいめいに跳ねる。つぶらな瞳を持つ彼らを、けれどあたしは追いつめ、仕留めるために追っている。  ごつごつした黒い鱗が並ぶ、竜の巨体にしがみつきながら。  あたしは竜と旅をしている。けれど、彼を相棒と思ったことはなく、ましてや友人と思ったこともない。  この竜は、自分の目的を達するための、ただの契約相手だ。  風の(かたまり)が顔面にぶつかる。目はまともに開けていられない。竜が飛行速度を上げれば上げるほど、耳を切る風はナイフのように鋭く、冷たくなる。鹿との距離はかなり縮まった。しかし、もう少し我慢しなければあたしの投擲する毒槍は届かない。鹿が林にたどり着くまでが勝負だ。竜の広大とすらいえる翼は、障害物がある空間では役目を果たせない。  あたしは手綱(たづな)から手を離し、太ももで竜の胴体をきつく挟むようにして体を起こした。翼がばったばったと大きく羽ばたくたび、ぽいと振り落とされそうになる。それを、お手製の鞍の上で必死にこらえる。一番脚の遅い、未熟な個体に狙いを定める。この瞬間だけはしっかりと、目を見開いていなければならない。冷たさと痛さで涙が滲む。あたしは背中に背負った槍筒から短い槍を取り出し、構え、腕を振るう。  毒を塗った槍先が、鹿の背中後方に命中した。 「やった!」  思わず、声を上げていた。槍の毒はドクトカゲの強力なものだから、わずかな傷さえ付けれれば充分だ。鹿はどうと倒れ伏す。これで、今日のぶんの食糧は一安心。  内心でほっと息を吐いたとき、眼前に密な木の壁が迫っていることに気づいた。  しまった。  狙いを定めるのに、思った以上に時間がかかっていたらしい。木々に突入する直前、激突を回避するために、自分の下にある竜の体が急旋回、急上昇した。体重が何倍にもなった感覚が、ぐぐぐとあたしの体を襲う。かと思うと急激に体が軽くなり、あたしは中空に投げ出されていた。 「あ」  空の澄んだ青が視界を染める。  竜という翼を失ったあたしは、野花で覆われた地表へと、真っ逆さまに落下した。 「まったく。俺の手をかかずらわせるな、人間の小娘め」  布製の簡易なテントを張り、今日の拠点と決めた林間のとある地点に戻ると、人の青年の姿になった竜は開口一番そうぼやいた。  あたしは返す言葉もなく、しかし悔しいので、顔を歪めて目を逸らした。さっきのは完全に自分の失態だった。落ちるあたしを彼が、鋭利な爪の先で掴み上げてくれなかったら、地面に叩きつけられて大怪我をしていたかも――それどころか、命すら失っていたかもしれない。想像すると体が震えてくる。  あたしは肩を抱くようにして、小刻みに振動する体を慰めた。確かに彼はあたしの恩人(恩竜?)だった。  当竜は倒木に座ってふんぞり返り、あたしをその刃物に似た目で睨んでいる。 「俺は腹が減った。さっさとお前の取り分を決めろ。この俺を待たせるなど、いつからお前はそんなに偉くなったやら」  ため息が出る。助けてくれてありがとう、と素直に礼を言う気も失せるのは、彼のこの態度のせいだ。  竜。今は無き黒竜の部族の元族長。  陽によく焼けた精悍な顔つきと、夜の闇みたいな黒々とした髪、均整のとれた長躯を持つ。瞳ははっとするほど鮮彩な青色だけれど、右目は白く濁り、(めし)いてしまっている。人型に変じた際に纏う、ふんだんに金刺繍のされたたいそう立派な黒衣は、彼自身の鱗が変化したものだそうだ。  実年齢は途方もないほどの数字――文字どおりあたしとは(けた)違いの数字――らしいがよくは知らない。人型の外見だけ見ていれば、あたしとさほど離れていない青年にも思える。あたしは彼を、ジーヴと呼んでいる。  結局礼は言わぬまま、仕留めた鹿の皮をめしめしと剥がす。それをジーヴは、椅子代わりの倒木があたかも貴族の座る絹のソファであるかのように、王族の腰かける玉座であるかのように、尊大にふんぞり返りながら、興味がなさそうに眺めていた。  いつでもこうだ。ジーヴは常に、荒野でも街中でも草原でも森の中でも、そこがまるで自分のために作られた宮殿であるように振る舞う。竜は何時(なんどき)も気高くあるものだ、とは彼の言だ。 「こんな小物では足りんな。小娘、もっと大物を仕留めてこい」  あたしが取り分を取った残りの鹿を、竜型のジーヴはぺろりと一飲みしてみせた。まったく、竜は燃費が悪いことこの上ない。乗り物としては最低の部類だろう。近頃王都に現れたという飛行船とは比べるまでもなく、黒煙を吐いて街から街へ疾駆する蒸気機関車の方がまだましに違いない。  森の中のぽっかりと開けた場所には、細い煙が立ちつつある。枯れ枝がぱちぱちと音を出す。あたしはしゃがんで肉を焼くための火をおこしながら、ぼそりと漏らす。 「……あたしは小娘じゃない」 「なに?」 「あたしはアイシャ。いつになったら覚えるの」  ジーヴはくくくと笑う。嫌な感じのする含み笑い。彼と旅を始めて数ヵ月経つが、この男がこういう、嫌味ではない笑い方をするのをまだ聞かない。 「この俺に名前を覚えてほしいか、小娘」 「……あたしばかりあんたの名を呼ぶのは、公平じゃない気がするだけ」 「人間の分際で竜に公平を求めるか? 名を覚えて何の意味がある? お前の方が遥かに先に死ぬというのに」 「……」  よいか小娘、と諭すようにジーヴは言い、尖った爪の生えた指で、木の天蓋(てんがい)のその向こうを指し示す。層になった緑をすら突き抜けてそびえ立つ、この大陸一の火山の偉容が見えた。 「俺が生まれてから、あの山は六度火を噴いている。人間のお前に想像できるか? 俺が見てきた中で、両手で数えうる出来事といったらそれくらいだ。お前との旅程など、俺にとっては一瞬で過ぎ去るくらいの、取るに足らぬものだ」 「……」 「それでもなお名を覚えてほしかったら――」 「……ほしかったら?」 「俺の足を引っ張るな。もっと俺の役に立て。俺の腹を満たしてみせろ。今のところ、俺はお前のことを非常食程度にしか思っていない」  返答に詰まる。何も言い返せなかった。  竜はいつでも自分こそが正しいと思う生き物なのだと、ジーヴは言ったことがあった。傲岸不遜で、傍若無人で、狷介(けんかい)孤高なのだと。本当にそうだなと思った。彼の言葉以上の真理など、あたしの中には無かった。  共に旅することをジーヴに持ちかけてから数ヶ月。二人で行う狩りに慣れてきたとはいえ、あたしの狩りの腕はまだまだ未完成だった。悔しさがじわっと胸に広がる。もっとたくさんの獲物を捕らえられるようになって、ジーヴを見返してやりたい。  ――それは旅の目的では、ないけれど。  鹿の肉が、大きくなった炎に舐められ、じゅうじゅうと音を立てている。  ジーヴは腕を組み、視力の残った左目で、まっすぐあたしを射る。 「二人での旅は、お前が言い出したことだろう。現状では、俺の旨味が少なすぎるのではないか。お前は俺の右目で、俺はお前の左腕なのだろう? 足手まといにいつまでも付き合ってやるほど、竜はお人好しではないぞ」  あたしの左腕は、肩から先が無い。  あたし達が出会った夜に、ジーヴは片目を失い、あたしは片腕を失った。邂逅ののっけから、お互い死にゆく身だった。死の淵の出会いから這い上がるのに、手だてはひとつきりだった。  あたしが彼の目になる代わり、彼はあたしの腕となる。生きるために。生きて、旅を始めるために。  それがあたし達の、契約内容だった。  腕の傷はまだ(うず)く。あたしは立ち上がって、体に残った右腕を、ジーヴの方へと持ち上げる。   「今に見てな。あんたが言ったこと、後悔させてやる」  ジーヴの顔面を指差す。挑むように言い放つも、彼はまたもやくくく、と一笑するだけだった。 「勇ましいことよ。期待はしないでおこう。せいぜい楽しませてくれ」  あたしはふんと鼻を鳴らし、焼けた鹿肉にかぶりつく。むぐむぐむぐと乱暴に咀嚼し、ごくんと飲み込む。  絶対にこの男の鼻を明かしてやると強く思いながら。  ジーヴはあたしを悠然と見下ろして、皮肉っぽい笑みを浮かべ続けていた。
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