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柳井が店に来ると聞かされてから、紗瑛は落ち着かない気分だった。
表面上はふだんどおりに振る舞ってはいるけれど、一階にある入り口の扉が開いた音がするたび、心臓がきゅっと痛くなる。あのときと同じ痛みが走るたび、紗瑛は唇を噛みしめながら痛みに耐えた。
『柳井が婚約したそうだ』
数日前、店の奥にある事務室に入ろうとしたら、扉の向こうから思いもよらない言葉が聞こえてきた。その日は朝からアランと恭子が打ち合わせを行っていた。昼食をどうするか、コーヒーを持って行ったついでに聞こうとしていたとき耳にしたその言葉は、驚き以外なにものでもなかった。
この店のパトロンでもある柳井が婚約したことをアランが告げると、恭子は「あら、そう」と平坦な声で返していた。扉の前で立ち尽くしていた紗瑛は激しく動揺しながら、二人の会話を聞き続けた。
アランの話によると、柳井が副社長を務めている会社と取り引きしている会社の社長令嬢が婚約した相手だという。数か月前に行われた内輪だけのホームパーティーで、御令嬢が見初めたらしく、すぐに見合いの席が設けられトントン拍子に話が進み、このたび正式に婚約したということだった。しかも柳井は、結婚する前に柳井通商を退職し、婚約者の父親が社長を務める会社に行くことが決まっているという。
『ということは、つまり入り婿?』
『あいつは次男だからね。それに昔から覚悟していたから』
『何を?』
『あいつにとっては結婚は家のためにするもので、それ以下でもそれ以上でもないと思う。まあ、そういうふうに育てられたんだろうけど。だからあいつ、一度も恋愛したことないそうだ。俺に言わせたら、人生すべてを損しているようなものだよ』
『でも、お見合いしたんでしょう? 多少の好意くらいあったんじゃない?』
『岩井物産の社長と御令嬢に惚れられたんだ。断れない』
『ああ、そういうことね。柳井通商の一番の得意先かあ。じゃあ、柳井さんはいずれは岩井物産社長になるってことでいい?』
『そうなるね。あいつは仕事できるし、一社員から始めたってすぐに頭角を現すさ。正に理想的だな。御令嬢が惚れて、その父親も惚れるいい男。そこにあいつの感情は一切入っていないけれど、そつなくこなすさ。理想的な夫・理想的な婿をね』
『今さらだけど、あんたって結構な皮肉屋よね』
『お褒めいただきどうも。となると、今後のことを話し合わなきゃならないな。あいつは一応この店の出資者だし』
紗瑛の耳は、柳井が婚約した事実を無情にも拾い上げ続けた。
それから数日経った金曜の夜、つまり昨日だ。三年前に交わした約束したとおり、いつもの場所に向かったけれど、そのとき柳井は何も言わなかった。
当たり前だ、二人の間には恋愛感情などはじめから存在しない。あるのは秘密の時間を過ごす者同士の信頼だけ。そう、始めからそれしかないのだ。
紗瑛は自分自身にそう言い聞かせ、机の上にある顧客リストを見下ろしながらため息をつく。その直後、離れた場所で扉が開く音がした。紗瑛は緊張した面持ちで、ごくりとつばを飲み込んだのだった。
「またのご来店をお待ちしております」
紗瑛はそう言って深々とお辞儀した。
来店した顧客の気配が消えたころ、下げていた頭を戻したら店の紙袋を持った女性の後ろ姿が見えた。それが小さくなるまで眺めてから店内に戻り緩やかな曲線を描く手すりに手を添えて、らせん階段をのぼり始める。
二階の内装の色と同じワイン色のカーペットに足を掛けたとき、ドアが開く音がした。入り口から入ってきた男と目が合ったのと、脳が彼を認識したのはほぼ同時だった。
「こんにちは」
やや厚みのある体を濃紺のスーツに包んだ柳井から、よそ行きの声で挨拶された。
襟から覗くグレーのシャツにえんじ色のタイが映える。今まで何度も目にした姿なのに、見る度胸が高鳴り切ない気持ちになってくる。それが恋心だと自覚したのは、初めて抱かれた夜だった。
柳井の熱を全身で感じながら胸に走った痛みは、彼の姿を目にするたびに胸に蘇る。紗瑛は切ない痛みに耐えながら、彼にほほ笑んだ。
「こんにちは、柳井さん」
紗瑛が挨拶すると、何かに気づいたのか柳井があたりを覗いだした。
「コーヒーの匂いがする」
階に掛けた足を下ろし、紗瑛は柳井に近づいた。
「今さっきまで、コーヒーがお好きなお客様がいらしていたんです。お飲みになります?」
「是非」
「じゃあ、恭子も一緒に」
近づいた柳井に笑みを向けると、目を大きくさせていた。
「恭子さん、こちらにいらしているんですか?」
「はい。といっても、店頭に出ているわけではなく、事務室で仕事をしています」
階段を上りながら会話を交わしていると、背後から何かを握らされた。手のひらから伝う感触でそれが何であるか分かった直後、体の奥が勝手に熱を帯びた。それに意識を向けないよう、紗瑛は話をし続ける。
「そういえば、恭子から聞きましたが、サンプルができたそうで」
「ええ。レースのサンプルは早いうちにできていたんですが、肝心の生地の方が遅れていまして。それがようやくでき上がったので、お持ちしたんです」
「恭子は肌触りにこだわるから……」
階段を上りきると、店内に人の気配がした。紗瑛は先ほど柳井から渡されたものを急いでワンピースのポケットにしまい込む。
店にいたのは、事務室にいるはずの恭子だった。手には白いマグカップを持っている。彼女は売り場からバックヤードへ続く廊下の入り口に立っていた。
「いらっしゃい、柳井さん。お待ちしていたわよ。コーヒー飲む?」
「喜んで」
「ついでにサンプル見せて頂戴。楽しみにして待っていたんだから」
恭子は言いたいことだけ言って、くるりと背中を向けて立ち去った。
「コーヒー御用意しますね」
恭子の姿が見えなくなったあと、紗瑛は隣にいる柳井を見上げた。ハイヒールを履いていてもなお、彼との身長差はなくならない。
「じゃあ、わたしは恭子さんにこれを見せてきます」
柳井は持っていた黒いカバンから大きな封筒を取り出した。その中には、レースと生地のサンプルが入っているのだろう。
ル・シャルマンはインポートランジェリーを販売している店だが、プライベートブランドの製品も販売している。そのアイテムに用いている生地とレースは、柳井の会社で作っているものだった。
「いつも迷うんです」
「え?」
紗瑛は苦笑した。
「こういうとき『頑張って』と言っていいものかどうか」
すでにサンプルはでき上がっているし、あとはプロジェクトの責任者である恭子が確かめるだけになっている。彼女が納得しなければ、もう一度糸から作り直すことになるだろうし、それを行うのは柳井通商の紡績ラインだ。
柳井は、恭子と部門それぞれの意見を聞いて、相手に伝える役目だし、彼に今できることはサンプルを見せることだけだった。
交渉が絡むことならば、背中を押すような言葉を掛けることもできよう。しかしそうではなく、結果を伝える役目の相手にどんな言葉を掛けたらいいのかいつも迷う。紗瑛が困った顔で柳井を見上げていると、彼は表情を緩めた。
「わたしが部屋から出たらおいしいコーヒーを飲ませていただけますか?」
「えっ?」
「だって、仕事モードの恭子さんを前にして、コーヒーを飲む余裕などないだろうし。紗瑛さんがいれてくれたおいしいコーヒーが待っていると思えば、頑張れるから」
笑顔で言われてしまえば断れない。それに、仕事モードになった恭子がどんなふうになるか分かっているだけに、彼が言うことにも頷ける。
「分かりました。では、御用意しておきます」
「お願いします。あとこれ」
柳井が黒いカバンから取り出したのは、海外のファッション誌だった。表紙にはランジェリーと英字で書かれている。
「先月発売になったものですが、こちらで取り扱っているブランドのデザイナーの記事が載っていました」
「あ、ありがとうございます」
「いつもどおり、訳したメモを入れてますので、時間があるときにでも読んでもらえたら嬉しい。では、あとで」
そう言って、柳井は恭子が待ち構えている事務室へ行ったのだった。
柳井が事務室を出たのは、一時間後だった。その間、紗瑛は顧客カードの整理をしながら、いつ彼が来ても良いように、コーヒーカップを温めて待っていた。廊下の奥から扉が開く音がした直後、柳井の声が聞こえてきた。
「では、また伺います」
紗瑛は保温器からカップを取り出した。彼の足音が近づくなか、慌てずコーヒーを温かいカップに注ぐと、温かい湯気とともにコーヒーの香りがふわりと立ち上がる。小さなトレイにカップを乗せて、廊下から売り場にやって来た柳井に近づいた。
「お疲れ様でした。どうぞ」
労いの言葉を掛けたあと、紗瑛は両手で持っていたトレイを柳井に差し出した。すると、疲れ切った表情がみるみるうちに和らいだ。しかし、まだ疲れが見える。よほど厳しいことを言われたに違いない。
「ありがとう。いただきます」
そう言って、柳井は顔をほっとさせたあとコーヒーを飲んだ。
「うまい。ほっとする」
「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」
紗瑛が笑顔で礼を述べると、柳井は熱いコーヒーを一気に飲み干した。空になったカップを紗瑛が持っていたトレイに置いたあと、柳井はため息をついた。
紗瑛が見つめるなか、ほっとしていた顔が真面目なものになる。
「さて、戻るか」
「これから会社にお戻りになるのですか?」
「ええ。恭子さんから頂いた意見を部門の人間たちに伝えないとならないので」
「恭子からはどんな指摘を?」
「もう少しなめらかさと柔らかさが欲しいと。理想は、肌に触れた途端溶けるような感触とおっしゃっていましたが、分かるようで分からないんですよ、その感触が」
柳井から苦笑を向けられたとき、紗瑛はあることを思い出した。
「彼女が求めているのは、練り絹のような感触なんです、確か」
すると、柳井は合点がいったような顔をした。
「なるほどね。練り絹か。それが分かったからには、一刻も早く部門の人間と話し合わないと。試作品が出来たらすぐにこちらに持ってきます」
「ええ。お待ちしております」
「じゃあ、わたしはこれで」
一刻も早く部門の人間に伝えたいのだろう。柳井は手短に別れの挨拶を告げて、階段を下りようとしたそのとき。バタンと扉が閉まる音が聞こえてきた直後、カツカツとヒールが床を叩く音を響かせながら恭子がやって来た。
「柳井さん。これ忘れ物」
階段を下りようとしていた柳井に、恭子がサンプル帳を手渡した。事務室に忘れてきたことに気づいた柳井が申し訳なさそうな顔をする。
「すみません」
「いえいえ。良かった、お帰りになる前で」
紗瑛の目の前で、恭子がほっとした顔をした。と思ったら、何かに気がついたのか「あっ」と短い声を上げる。
「そういえばアランから聞きました。御婚約されたようで」
恭子が笑顔でそう言うと、苦笑していた柳井の顔から一瞬で表情が消えた。だが、すぐさま笑みが戻る。それを紗瑛は見逃さなかった。
「ええ。先週の土曜日に結納を終えました」
「お式はいつ?」
「年明けを予定していますが、まだ何も決まっていない状態で……」
柳井は苦笑していたが、それが困っているような表情に見えた。紗瑛は会話を交わす二人の姿を眺めながら、心の中でため息をつく。
「柳井さんもお忙しい方だから、年明けどころか来年いっぱい無理なんじゃないの?」
恭子がにやりと意味深な笑みを向けるが、柳井は特に気にすることもなく笑みを浮かべたままだった。
「お式にはわたしたちは行けないだろうし、決まったら何かお祝いの品をお届けしますよ」
「できればランジェリー以外のものでお願いします」
「じゃあ二人で使えるような何かを探しておきます。引き留めてごめんなさい」
恭子はそう言ってにっこり笑ったあと「またね」と手をひらひらさせて事務室へと戻っていった。その後ろ姿を見送ったあと、紗瑛はちらりと柳井を盗み見た。すると、どういうわけか柳井と目が合ってしまい、紗瑛はすぐさま目をそらしたのだった。
「さて、今度こそ帰るか」
動揺を押さえ込み柳井を見ると、いつもどおりの彼だった。
さっき目にしたものは、きっと見間違いだ。紗瑛はそう自分に言い聞かせ、階段を下りようとしている彼のあとを追いかけようとした。だが、ここで思いがけないことが起きる。前を歩いていた柳井が急に足を止めた。それに合わせて紗瑛も足を止めると、柳井がくるりと振り返った。
「ここでいいですよ」
「でも」と紗瑛が言いかけたとき、柳井の唇が動いた。
『あとで』
無言のメッセージを読み取ったとき、心臓が大きく脈打った。紗瑛は一瞬だけ目を大きくさせたが、すぐに元の顔になる。
「コーヒーご馳走さまでした」
そう言って、柳井は何事もなかったかのように階段を下り始めた。
扉が閉まる音が聞こえてくるまで、紗瑛は階段を見下ろしたまま立ち尽くしていた。
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