《第一章》心隠して

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《第一章》心隠して

「サエ」  紗瑛(さえ)は、はっと我に返った。店内へ目を向けるが、まだオープンさせていない店内には誰もいない。すぐさま階段へと視線を移してみたら、店のオーナーであるアランからほほ笑みを向けられていた。 「おはよ、紗瑛」 「おはようございます、アラン」  紗瑛は顧客カードの整理をやめた。笑顔を作って軽く頭を下げる。 「浮かない顔をしているけど何かあったの?」  姿勢を元に戻したら、色とりどりのランジェリーが並ぶガラスケースの間を通り、アランが近づいていた。ワインレッドの壁を背に、豪華なシャンデリアの下を歩くアランを目にしたとたん、紗瑛はあることに気が付いた。  ふだん店に来るときはダークスーツに白いドレスシャツを合わせているのに、今日はジャケットの下にVネックのインナーを合わせていた。それによく見たら、自慢の金髪も無造作に流しているだけだ。ピンときたものがあり、すぐ側までやってきたアランの匂いを気づかれぬようこっそり嗅いでみたところ、彼がデートのときにつけるコロンの香りだった。紗瑛は、金色のまつげに縁取られた靑い瞳をまっすぐ見た。 「御心配いただきありがとうございます。多分、寝不足でしょう」 「つまり、恋人と情熱的な夜を過ごしたってことかい?」  紗瑛は、アランから向けられる笑顔に苦笑で応えた。  もしも、誰かが同じ質問をしたら嫌悪を抱くだろう。しかし、アランからだとそうならないのは、詮索しないことを分かっているからだ。 「いいえ、アラン。昨夜は自宅で来期のカタログを眺めながら展示会のプランを考えていたんです」  紗瑛が勤務しているランジェリーショップLe charmant(ル・シャルマン)は、ランジェリーメーカーがカタログを発行する時期に合わせて来期コレクションの展示会を催している。その準備を自宅でしたと言ったけれど実は違う。しかし、嘘をついてまで守らなければならないものがあるから、紗瑛は申し訳ない気落ちをひた隠し、手元にあったカタログを掲げて見せた。 「つまりは仕事を持ち帰ったってこと?」  アランから渋い顔を向けられて、紗瑛は焦った。  プライベートなことには詮索をしないアランだが、仕事に関しては口うるさいくらい干渉するのだ。 「いえ。カタログは恭子(きょうこ)から許可を取って個人用にもらったものですし、プランについてはカタログを眺めているうちに浮かんだものをメモしただけなので仕事とは言えないと思います」  恭子は同僚で、元はこの店の店長だったけれど、現在は姉妹店の店長をしている。 「俺からすれば十分仕事だと思うけどな。サエは根を詰めるタイプだから心配になるよ」  アランから心配そうなまなざしを向けられ、紗瑛は内心でほっとしながら笑みを作った。 「ワークライフバランスはちゃんと取っているつもりです。でも、気に掛けてくれてありがとう、アラン。ところで、今日はこれからデート?」  話題を変えようとして問いかけると、アランは嬉しそうな顔をした。 「ああ。ハルカが、やっと機嫌を直してくれたんだ」 「今回は長かったわね。二週間だったわよね」  紗瑛が笑みを浮かべて尋ねたら、よほど嬉しいのかアランは頬を緩ませながら頷いた。 「そう。付き合って以来の記録を更新したよ」  珍しくしおらしい態度で、アランが返事する。彼が二週間も恋人ハルカから無視され続けた理由を知っているだけに苦笑いしか出てこない。 「あなたがいたフランスでは、男性が女性にランジェリーを贈ることは当たり前なのかもしれないけれど、日本はそうじゃないの。下心を感じ取ってしまうというか……」  遠回しに言うと、アランは真面目な顔できっぱりと言い切った。 「下心? そんなの、あるに決まってる。脱がせたいから贈っているんだし」  さも当然のことのように言ったアランを見て、紗瑛はあきれた顔をする。 「アラン。もしかして、その言葉、ハルカに言ったの?」 「うん。言った。そうしたら両頬ぶたれたうえに部屋から出ていけと言われた。二週間前の午前三時のことだ」 「よく覚えているわね……」 「そりゃあ、ね。ハルカとのあいだに起こったことは、喧嘩であっても全部覚えているよ。ほら、これ見て」  アランは得意げな顔で、いつも持ち歩いている黒革の手帳を開き、差し出した。そのページを見てみると、ハルカと一緒に行ったレストランやショップの名前と一緒にそこで交わされたと思われる会話の内容が事細かに書かれている。それに喧嘩した内容まで書かれていた。二週間前のところには、プレゼントしたランジェリーのサイズがぴったりだったことで恋人に怒られたとしっかり書かれていた。 「あのね、アラン。あなたがとても几帳面な人だというのは分かったわ。でもね、こういうものは他人に見せたら駄目」  あきれ顔で良い咎めたけれど、アランは気にもせず平然と告げた。 「だって、サエは家族だから。もちろんココも家族だよ」  ココは恭子の愛称だ。  アランに家族と言われて胸がじんと熱くなったけれど同時に心苦しさを感じた。  秘密を守るためとはいえ、家族と言ってくれるアランに隠し事をしていることには変わりない。心に罪悪感が広がり始めたタイミングで、目の前でアランが真面目な顔で重ねた両手を胸に押し当てる。 「この二週間、ハルカに会えなくて寂しかったよ。寂し過ぎて死んでしまうんじゃないかって思った」 「寂しくて死ぬって、大げさな……」 「そう思える人、紗瑛にはいないの?」  アランから真面目な顔で尋ねられ、一瞬「彼」の姿が頭に浮かんだけれど、紗瑛はすぐに打ち消した。 「いませんよ、そんな人」  じくじく痛む胸の痛みに耐えながら返事をすると、アランから優しい笑みを向けられた。 「そう。早く出会えるといいね、そう思える人に。そうすれば分かるよ。会えなくて寂しくて死んでしまいそうって」 「そういう方に出会いたいとは思いますが、会えなくて寂しくて死んでしまいそうっていう気持ちはできれば分かりたくありません」 「うわ、ひどい」  紗瑛がはっきり言うと、アランはわざとらしく傷ついたような顔をした。だが、何かに気づいたのか顔をハッとさせる。 「やばい。約束の時間に遅れる」  アランはあたふたとし始めた。 「サエ。じゃあ、行ってくる。あとでココにも伝えておいて、デートで今日はいないって」 「分かりました。あと何か伝えることは?」 「あとでコウスケが来ると思うから、渡された物を受け取っておいて。じゃあ、俺は行く」 「彼」の名前が突然出たせいで、心臓がどくんと大きく脈打つ。紗瑛は目を大きくさせた。だが、すぐにいつもの表情に戻し、大慌てで階段を下りるアランに「行ってらっしゃい、気をつけて」と言ったあと「恋人を困らせないで」と付け加えたのだった。      紗瑛は今年で三十一になる。大学を卒業し入社した大手商社で、インポートランジェリーを扱う部門にいたけれど、五年前アランに誘われLe charmant(ル・シャルマン)で働き始めた。  アランは、紗瑛が働いていた会社と取り引きしていた実業家であり投資家だ。フランス人である彼は、自国のものを日本の企業に紹介して新しい取り引きに繋げていた。  特に力を入れていたもののひとつにランジェリーがあるけれど、いくら力を入れても、インポートランジェリーはドメスティックブランドに比べて高価なうえに輸入数が少ないから当然出回る数も少ない。採算を考えれば店舗数を絞って販売することになるが、購買層が増えない限り売り上げは横ばいが良いところだろう。そんな部門はお荷物でしかないと判断した会社に、アランは不満を訴えた。 『確かに経営者としては利益を追求して当たり前なのだが、女性を美しく飾るランジェリーに現実を求めちゃ駄目だよ』  とはいえ、その言葉は所詮きれいごとだ。利益を追い求めない経営者はいないし、売り上げが伸びない部門を切り捨てることを決めた会社の事情も分かる。  この頃、紗瑛が働いていた会社は負債を抱えていたから、プラスにならない部門を全て切り捨てたのだ。  切り捨てられた部門で働いていた社員たちは黙って違う部署へ異動した。しかし、会社を辞めて、インポートランジェンジェリー部門がある新しい会社に移ったものもいる。そんななか紗瑛は迷った。今いるところがなくなるという事実を受け止めきれなかったことと、愛着のある場所から離れ難かったからだ。しかしだからといって店が存続するわけではない。忸怩たる思いで今後の身の振り方を考えていたある日、紗瑛が店長を務めていた直営店にアランがやって来た。  Le charmant(ル・シャルマン)は、とても良い店だった。店の作りもとても贅沢だし、取り扱うメーカーの数も多い。それに顧客の数だって桁違いだ。それでLe charmant(ル・シャルマン)とは別に、ルミエラという店を今年の春にオープンさせたのだが、ありがたいことに両店ともに売り上げは安定している。アランが店を出たあと、開店準備をしながら、これまでのことを振り返っていると、階段を上る足音が聞こえてきた。 「紗瑛。おはよ」  目線を階段に向けたのと、あいさつされたのはほぼ同時だった。 「おはよう、恭子」  視線の先では、シャツタイプの黒いワンピースを身につけた恭子がこちらに向かって歩いてくる。波打つ長い髪をよく見ると、寝癖が残ったままになっていた。  朝とは言えない時間だが、今日は彼女が店長を務める(ルミエラ)は定休日だ。ということは、こっちで事務仕事をするために来たのだろう。店内に置いてあるガラスケースを一回り見ながら恭子は紗瑛のもとにやって来た。 「まだ今期のものが残っているわね」 「あと一か月もすれば来期のものが来るのに、どうしましょ」 「こうなったらセールやっちゃう?」 「恭子がその調子だから、セールまで待つお客さんが増えているような気がするんだけど」 「まあ、それも良しよ。こっちは在庫さえなくなればいいの。あいつだって、もうけなんか考えていないし」  恭子から笑みを向けられ、紗瑛も笑みで返す。  あいつとはアランのことだ。彼女の言った通り、この店はもうけをまったく考えていない。通常ならば仕入れた価格に関税などを上乗せした価格で店頭に出すのだが、この店では仕入れた価格に限りなく近い値段で出していた。だから、店の利益はほんのわずかしかないけれど、インポートランジェリーを身につける人が増えれば、いつかは必ずもうけに繋がるとアランは自信たっぷりに言い切っている。その時の姿を思い返しながら、店の奥にある事務室へ向かう恭子の背中を眺めていたら、急に彼女が足を止めた。 「ところで、柳井(やない)さん来てた?」 「え?」  くるりと振り返った恭子から急に尋ねられた。紗瑛は瞬きを繰り返す。 「アランから聞いてない? レースと布のサンプル持ってくるらしいわ」  アランと交わした会話を振り返ってみたところ、「彼」が来るとは聞いてはいたが、サンプルの話は聞いていない。 「そういえば来るとは聞いているけれど、サンプルの話はなかったわ。もしかして、でき上がったの?」 「でき上がったから持ってくるのよ。布に関してはかなりなめらかな手触りだと聞いているけれど、どうかなあ。コットンはコットンでしかないし、それでシルク並みの手触りを再現するって言っていたけれど……」  恭子はきれいな顔を渋くさせた。薄化粧を施した(かんばせ)は、化粧をしているときよりも艶めかしい。ベージュピンクの口紅が彼女の唇を柔らかそうに見せている。 「ま、いっか。触ってみないことには分からないし。ということで、柳井さんが来たら呼んで」 「分かったわ」 「じゃあ、頑張ってくるわ、事務仕事」 「あとでコーヒー持ってく」 「ありがと。待ってる」  そう言ったあと、恭子は奥にある事務室へ歩き出した。  紗瑛は彼女の背中を一瞥したあと、展示会に招待する顧客のリストを整理し始めたのだった。
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