《第一章》心隠して

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 目が覚めたと同時に、伸ばした腕に重みがないことに気づいた。  そこに紗瑛がいないことは分かっているのにあたりを探ったのは、無意識の行動だった。柳井は深く息を吐きながら目を開く。案の定、隣に彼女はいなかった。  寝入っているあいだに彼女が帰るのはいつものことだ。そうしてくれと頼んだわけではないのに、彼女はいつの間にかいなくなっている。それが彼女との関係を如実に表しているように思えてならず、柳井は体をベッドに横たえたままため息を漏らす。  このような関係も三年を過ぎた。紙で指を切った彼女の表情に激しく欲情し、その衝動を抑えきれず彼女を誘惑したけれど、これほど続くとは考えもしなかった。それに、自分に応えるように、紗瑛が被虐行為を受け入れ続けたこともだ。行為の前に決めたセーフワードは、まだ使われていない。だからこそ、昨夜ドレッシングルームで黒いリボンを見たときは驚いた。  始めに決めたルールでは、この秘密の関係をやめたいと思ったら、ここにリボンを置いていくことになっている。ということは、彼女はここへは来ないと決めたのだから、約束通り関わらなければいい。それなのにしらを切って単なる忘れ物として渡したのは、彼女に話したいことがあったからだ。が、いざ彼女の姿を目にしたら、不埒な欲望がせり上がり、結局話さないまま行為に及んでしまった。その上、抱いている最中、強引に唇を奪った。今までそういった衝動がなかったと言えば嘘になる。しかし、キスはしないと心に決めていたから、ギリギリのところで衝動を抑え込んでいた。なのに、乱れる彼女の姿を目にしているうちに、焦燥感に似たものが欲望に火を付けた。  唇を無理やりこじ開け、舌をねじ込んだら、彼女は応えてくれた。熱い舌に触れたとき、得も言われぬ喜びが胸に広がった。それに体だってそうだ。繋がっているところの潤いが増し、高ぶったものをやわやわと締め付けてきた。  肉体と精神の両方で得たものを思い返していたら、彼女が欲しくなった。けれど、彼女はもういない。かといって、受け止めてくれる相手がいるから、快感が喜びに変わることを知った今、自ら慰め欲望を満たすのは嫌だ。空しさしか残らないから。ふいに沸いた劣情を持て余しながら寝返りを打つと、生々しく残る情事の匂いに混じる彼女の残り香が鼻を掠めた。それが呼び水となり、数時間前の行為が脳裏に浮かんだ。それに、彼女に言わなければならない言葉も。かろうじて明日彼女と会う理由を作ったのだ。明日こそ告げよう。そう心に決めたものの気持ちがぐらぐら揺らぐ。  結婚が決まった以上、実のない関係はやめるべきだ。既婚の同好の士のなかには、夫婦生活と性的嗜好を分けているものがいるが、それはすなわち弱みになるし、なんとしてでも避けたかった。しかしだからといって、よこしまな欲望や衝動をずっと抑えつけられるかはわからない。現に三年前、衝動を抑えきれなかったのだから。  しんと静まりかえった暗い部屋でどうしたものか考えてみたけれど、今夜も答えは見つからなかった。
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