プロローグ

1/1
前へ
/32ページ
次へ

プロローグ

 消防士の平嶋めぐるは夜勤明けの重たい身体をベッドにダイブさせた。ふわりと舞い上がったのは同居人の香りのみ。ほこりなんて舞い上がらない。めぐるの同居人は几帳面で布団の掃除も事欠かさない男だ。その男の香りを胸一杯吸い込むとめぐるの心臓は高鳴ってしまう。 「庸治さん・・・・・・」  めぐるは熱っぽい息を漏らしながら同居人の名前を呼ぶ。すると、それに応えるかのように、玄関でガチャリと音がした。めぐるはベッドから転がるように退いた。 ──ガタンッ! 「あいつ、カギを閉め忘れたな」  庸治の悪態がドアの向こうでする。めぐるが帰宅後施錠をしなかった為、次に帰宅した庸治が解錠しようとカギを回したら施錠されてしまったのだ。阻まれた庸治はもう一度鍵を鍵穴に差し込み、ようやく家に入ることができた。  庸治が2LDKのアパートに足を踏み込むと、めぐるはリビングのソファーでスマートフォンをいじっていた。その様子を目を細めて観察する。これは庸治の職業病だ。 庸治に観察されているめぐるのスマートフォンをタップする指はいつもより早く、慌ててロック画面を解除しようとしたせいで間違えたのか端末が震えた。「おかえりなさい」という声も小さい。目も合わせない。決定打は髪型だった。茶色がかった短髪の前髪は不自然に上に上がっている。庸治は踵を返し、自室へと向かった。そこには朝整えたはずのシーツがグシャグシャになったベッドがあった。 「めぐる、また俺のベッドで寝たな?」 「・・・・・・」  玄関を開けてすぐが庸治の寝室。そしてその次のリビングに近いところにめぐるの寝室がある。庸治は、めぐるの寝室のドアをごつごつした指の骨で叩いた。 「ちょっと歩けば自分の部屋だろ。横着すんな」  犯行がばれ、めぐるは解除されることのなかったスマートフォンを床に転がし、ソファーに足を投げ出した。肺の酸素をすべてはき出し、今度がソファーに仰向けで身体を沈める。諦めのポーズだったが、庸治はめぐるに近寄り逆立った前髪を撫でつけた。 「どうした。いつもより疲れているじゃないか。出動が連続したか?」  乗せられた手に自身の手を重ねたいと思いながら、反抗的に撥ねのけ身体を反転させる。 「筋トレしすぎただけ」  くぐもった声を出すめぐるの背中はシャツの上からでも分かるほど筋肉がついている。 「夜勤中でも筋トレを欠かさないのは偉いが、身体に障るぞ。いざというとき使い物にならなくなるだろ」 「若いから大丈夫」 「俺に喧嘩売ってんのか・・・・・・おっと、こんな時間か。そろそろ行かないといけないな」  勢いよく振り向いためぐる。庸治はネクタイを緩めながら腕時計を確認している。これからの予定は休息を取った後、出かける予定だった。しかし庸治の口ぶりに、めぐるは眉間に皺を寄せた。 「庸治さんも夜勤明けじゃないの?」 「明けだぞ。けど前から追っていたホシが動いたから、今から張り込みだ。ちょっくら風呂入りに来ただけだよ」  観察を癖とする庸治の職業は刑事だ。そして夜勤明けなのに仕事が入った。つまり、予定はキャンセルだ。 「悪いな。この埋め合わせはそのうちする」 「いいよ。子どもじゃないんだし。仕事を優先して」 「・・・・・・すまん」 「だからぁ」 「そうじゃない。俺はお前の父親代わりなのに結局何もしてやれていないだろ」  庸治が予定をキャンセルするのはこれが初めてではない。その度に、庸治は同じ言葉で謝罪する。それがめぐるにとってどれほど残酷な言葉かも知らずに。 「・・・・・・いいから。仕事に行って」  めぐるはまたソファーに突っ伏した。 「すまん。ありがとう」  三度目の謝罪の後、シャワーの音がする。身体を起こしためぐるはスマートフォンを拾った。パスワードは「0252」。ロックを解除しカレンダーを開いて予定を消す。少し遠くまでドライブ、そして服を買うだけの予定。なのにこんなにめぐるの心が痛むのは、めぐるが庸治に好意を抱いているから。  庸治もあんな言葉遣いだがめぐるを大切にし甘やかしている。しかしそれはめぐるが小学生の頃、両親を失っているから。庸治が父親代わりを申し出た時、すでに庸治のことを好きになっていためぐるは飛び跳ねるほどうれしかった。だが、現実は甘くない。 「行ってきますを言うのが、こんなに辛いなんて知らなかった」  胸を焦がすめぐるの手の中でスマートフォンの画面が暗くなる。恋の痛みから逃げるように、めぐるは再び「0252」をタップした。「252」は消防用語で「逃げ遅れまたは要救助者」 「0、2、5、2・・・・・・ああ、間違えた」  違うボタンを押し、スマートフォンが震える。 ──この想いからは逃げられない
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

44人が本棚に入れています
本棚に追加