第三話 怪我の功名

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 めぐるは記載された住所まで火事を生き残った車を使った。庸治の自宅は河島でも戸塚でもない場所。車を止める場所が分からず庸治に電話をかけようと思ったが、仕事の忙しい彼に迷惑をかけたくないと、近くのコインパーキングに止めた。  庸治の住んでいる場所はマンションだった。オートロック機能付きで、ロビーはインターフォンと壁に埋め込まれたポストが並んでいる。無駄なものが全くないデザインで、20代のめぐるにはまだ早い家賃だと分かった。そこの五階に庸治の部屋がある。めぐるは心臓を高鳴らせながら、エレベーターでそこへ向かった。鍵穴に鍵を差す手は震えている。初めてホースを持った時くらい緊張していた。 ガチャリと開錠の音がし、頑丈なドアを開けると、隙間から庸治の香りが漏れ出てきた。 「ここが達川さんの家」  ほとんど何もなかった。靴すらない。余分なものは棚にでも閉まっているのか、傘が一本だけささった傘たてがあるだけ。そこで靴を脱ぎ、リビングへ。カウンターキッチンには洗いものはない。リビングはテーブルとテレビや本棚。本棚には警察関係の本が敷き詰められている。その本も背に合わせて並べてあり、階段のように整頓されている。  めぐるはこの部屋で一番明るい色をしたビリジアンのソファーに座る。 「落ち着かない。どうしよ。ご飯とか作った方がいいのかな」  人様の冷蔵庫を開けるのは憚られるし、めぐるは料理ができない。本当に手ぶらで来てしまったことを今更後悔した。だが、それも邪念が吹き飛ばす。 「今一人ってことは……」  めぐるは廊下に面しているいくつかのドアの存在を思い出した。トイレに脱衣所、そしてもう一つは…… 「達川さんのベッドがある」  鼻息が荒くなる。本能と理性の戦いが始まり、開始早々理性が勝負を放棄した。この機を逃がしてなるものかと、本能はめぐるを庸治の寝室へと誘う。 ──ガチャッ  庸治の寝室はこれまたシックだった。ただ寝るための部屋という印象。ベッドサイドにはスマホの充電器のみで、サイドテーブルには目覚まし時計が一つだけ。リビングのように本はない。そしてめぐるが一番驚いたのはシーツだ。皺ひとつない。めぐるが来るから綺麗にしたのか、それとも彼の性格なのか。肉体派の仕事をする男の綺麗なシーツにダイブするのは心苦しかった。そもそもガサツなめぐるはここまで元に戻せない為、犯行がばれてしまう。  めぐるは諦めて、寝室をあとに……するまえにシーツに鼻を押し付けた。そして今度こそ本当にリビングへ戻った。しばらくすると玄関が開く。 「鍵開けっ放しじゃねーか」  庸治の声。 「おーい、めぐる」  めぐるはリビングに入ってきた庸治に「おかえりなさい」と言おうとした。しかし言葉が出なかった。 「おっ、あっ……あの……お疲れ様です」 「おう。ただいま」 「お、おか……」 「?」 「……すみません。おかえりなさいなんて言ったことがほとんどなくて……おかえりな、さい」  めぐるに家族がいないことを庸治は痛感してしまう。そのせいで鍵を閉めていないことを怒り損ねた。 「そのうち慣れるさ。なんなら、俺を父親代わりにしてくれてもいいぞ」 「そ、それは!」 「て言っても、俺も倅が本当にいるわけじゃないから、父親ってのがてんでどんなか分からないけどな。とりあえず、家がなくなって大変なことは事実なんだ。ゆっくり羽を伸ばせ」  めぐるは嬉しい反面疑問だった。まだ出会って数回しか会話をしたことがないのに、どうしてもここまでしてくれるのか謎だったのだ。 「あの、達川さん」 「ん? 堅苦しいな。庸治でいいぞ。しばらく家族なんだから。なんてな」  にかっと笑った庸治に、めぐるが幸せいっぱいになり、質問内容を忘れかけた。 「よ、庸治さん」 「なんだ、めぐる」 「どうして、俺のこと助けてくれるんですか?」 「だって困ってんだろ?」 「でも、俺と庸治さんはほとんど面識がありません」 「一緒に体鍛えて、飯食った仲だろ」  庸治にそこまで認識してもらえていたと思わず、めぐるは頬を染めた。 「大丈夫か? 熱でもあんのか?」 「違います! そうじゃなくて」 「困ってるやつをほっとけないたちなんだよ。他の住居者は保護してもらえる場所があった。けど、めぐるだけは親族がいないし、実況見分してる消防士に聞いたら、署に泊まってるっていうから、それなら俺の家にって思っただけだ」 「そうだったんですね」  それでも十分お人よしだ。庸治は「飯食うか?」と無理矢理話を終わらせた。 「はい。俺、実は料理できなくて」 「俺がする。あと、車はどうしたんだ」 「近くのコインパーキングに」 「今日は来客用のところに停めてろ。いるなら明日不動産に連絡してもう一台分契約しといてやる」 「そんなに長居していいんですか?」  庸治はカウンターキッチンでまな板と包丁を取り出しながらめぐるを見た。 「構わん」  庸治との生活はしばらく続く。めぐるは新居を探す気をなくしてしまう。そして本格的に調理を開始した庸治の邪魔にならないように車を動かしに行った。  めぐるが家を出ると、庸治はスマホを取り出した。 「もしもし、俺だ。今大丈夫か?」 『お疲れ様っす、刑事』  相手は向井田。 『平嶋の件、どうでした?』 「ちゃんと家にいた」 『まじっすか?! よく断られなかったですね』 「俺も驚いた」 『驚いたって、言い出したの刑事じゃないですか。平嶋めぐると一緒に住むって。それで──』 ──平嶋めぐるの身辺警護するっていったの 「そうだけどよ。まさかここまで簡単に同居にこぎつけるなんて思わなかった」 『最近ジムで知り合ったんですよね? もとから人懐っこい性格なんですかね。親いないんですっけ?』 「ああ」 『だからじゃないんですか? 寂しいとか』 「俺もそう思う。夜勤の時とかに何もなけりゃいいんだが」 『めちゃくちゃ子ども扱いしてますね』 「……別にいいだろ」 『歳もかなり離れてるし。女性は違ったけど、友達の幅は広いっすね』  電話口で向井田が小さく声を上げる。 『刑事が女連れ込めないじゃないですか!』 「いねーよ」 『でも、これからできても連れ込めないですよ?!』 「これからもねーよ」 『刑事、もてると思うんですけどね。几帳面だし、優しいし、男らしいし一つだめなところがあるとすれば、すでに仕事と言う恋人がいることくらいですかね』 「ほっとけ。それに話がそれすぎだ。そろそろ切るぞ。もどってきちまう」 『了解です。また報告よろしくお願いします』  電話をきると、めぐるが戻ってきた。 「遅かったな」  めぐるは黙ってコンビニの袋を差し出した。手ぶらできたのが申し訳なくて、せめてお茶だけでもと買ってきたのだ。 「悪いな。あと、鍵閉めたか?」 「あっ」  くるりとめぐるは玄関へ走っていった。施錠の音がする。 「ちゃんと閉めろよ。チェーンも。最近物騒だからな」  言葉に込められた作戦と思い。めぐるにとっては幸せな日々、庸治にとっては気の抜けない同居が始まった。 「手伝います」 「じゃ、きゅうり切ってくれ」 「はい」 ──サクッ 「いったあ!」  第一刀で、人差し指を切った。 「大丈夫か?!」  庸治は血があふれ出てくる指をグッと押え止血をした。狭いキッチンで身体が密着する。  めぐるの顔が真っ赤に染まり、庸治は力を緩めた。 「痛かったか?」 「いいえ……あの……嫌じゃなかったです」  どんどんあふれてくる血液。庸治は絆創膏を準備する。 「すみません。料理下手で。全くしてこなかったので」 「俺も上手いわけじゃない。そのうちできるようになるさ」 「そうかな……やっぱりお母さんに教えてもらえばよかったな。昔、「料理する?」って聞かれたんですけど断っちゃって。その後、家が燃えちゃって」 「悪い。嫌なこと思い出させたな」 「庸治さんのせいじゃありません! 俺が思い出したのが悪いんです!」 「差し出がましいかもしれないが、俺のこと親代わりにしていいから。とりあえず、包丁の握り方から教えてやる」  庸治は、めぐるの後ろに回り、一緒に包丁を握った。めぐるの顔は赤いままだった。
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