第三話 怪我の功名

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 翌日、めぐるは,ぽけーっと空を見あげていた。手にしているホースからは水がジョロジョロでている。その手の人差し指には絆創膏。幸せいっぱいの男は昨夜のことを思い返し、心ここにあらずだった。 後輩長野はそんな先輩の顔の前で手を振る。 「せんぱーい。平嶋せんぱーい」  反応はない。長野の声に先に反応したのは隊長の由川だった。 「どうした長野? 平嶋どこかにって……おいこら平嶋あああ!」 「ひっ!」  長野の小さな悲鳴が上がる。それでもめぐるは呆けた顔で青い空を見あげていた。舌打ちをした由川がホースをひったくり顔面に噴射したことでようやく目をぱちくりさせ瞳に色が戻った。 「長野君、誤射しないでって、あれ? 隊長?」  めぐるが「そのホース、俺のですよ?」と顔から水を滴らせながら言った為、長野は頭にもう一本角を生やし水をぶっかけた。  その後、事態を飲みこんだめぐるに由川が喝を入れる。 「ぼさっとすんな! 水がもったいないだろ!」  項垂れるめぐるだったが、すぐに呆けた顔に戻る。好きな男と同居をしたせいなのに、何を勘違いしたのか由川は「さてはお前知ってるな?」と言った。 「知ってるって何をですか?」  めぐるは、ようやく洗車をはじめながら由川に尋ねた。 「今日の午後のことだよ」 「午後?」  午後から何かあっただろうかと、めぐるは消防車を洗う手を止めた。 「今日の午後、戸塚消防署の泉田副署長が来る」  手にしていたスポンジが落ち、泡を弾けさせた。泡の光沢が目にまで飛び散ったように、めぐるのこげ茶色の瞳が輝いた。 「本当ですか?!」 「ああ、しかも、お前に会いに来るそうだ」  声にならない喜びをガッツポーズで表現する。先日火災があった戸塚を管轄とする戸塚消防署副署長はめぐるの憧れの男だ。この男がいたおかげでめぐるは消防士になる決意をした。自然と清掃にも気合が入る。  しかし、時間を置くと、また空を見上げるめぐるに、由川は「泉田さんじゃないのか?」と疑問を持ち続けた。それでも泉田が河島消防署に顔を出すと、若い顔を少年っぽくして人懐っこく泉田に駆け寄った。 「先日は活躍だったそうじゃないか平嶋」   もう50を超えた泉田は、日に焼けた中年の顔に皺をつくって微笑んだ。豆の跡がたくさん残る手をめぐるの頭に置いてくしゃくしゃと撫でた。 「泉田さんに褒められるなんて、これ以上の幸せはありません!」  署内の人間は、見えない尻尾を振るめぐるを優しい目で見守っていた。泉田が来るとめぐるはいつもこうなる。それは皆知っていて、どうしてこうなるのかも知っている。 「可愛い教え子が活躍していて俺も嬉しいよ」  もう一度、めぐるを褒めると泉田は河島消防署の署長のもとへ。応援の礼をしに来たのだ。めぐるがいるから自分が来たという会話を聞いてめぐるは飛び跳ねるように喜んだ。それを見た後輩の長野がめぐるに泉田について尋ねた。 「あの人が先輩の憧れの人ですか?」 「そう! 消防学校時代の教官で、子どもの頃、俺を火事から救ってくれたんだ!」  火事で逃げ遅れためぐるを助けてくれたのが、当時、河島消防署の隊長だった泉田だったのだ。  あの日のことをめぐるは鮮明に覚えている。抱きかかえられ、火の海から自分を救ってくれた消防士。「大丈夫だよ」とかけてくれた声。家が目の前で焼け落ちた後も、めぐるのそばにいてくれずっと声をかけてくれていた。強さと優しさの塊のような男に憧れ、めぐるは消防士を志したのだ。試験に合格し、消防学校で奇跡の再会。  過去の思い出に耽っていると、署長室から内線が入り、めぐるが呼ばれた。  署長室で署長と、泉田の前にめぐるは座る。泉田は仕事の声でめぐるに話しかけた。 「先日の火災の件だ。どうも戸塚管轄の工場が燃えた件と平嶋のアパートが燃えた件は同一犯の可能性があると、警察から連絡が入った」 「また起こるかもしれないってことですか?」 「詳しいことは教えてもらえていない。とりあえず、しばらくはどちらも警察と連携を取ることになりそうだ」  その担当刑事が庸治であることを思い出し、めぐるは頬を染めた。 「大丈夫か? やっぱり火災に巻き込まれて……」 「消防士がそんなやわなわけありません!」 「そう言ってくれると、俺も鼻が高いよ。さて、そろそろおいとましようかな。放火の件でいろいろ書類を探さにゃいかん」  泉田は立ち上がった。制服の上からも逞しい筋肉が丸わかりだ。めぐるはそれを隅々まで見た。  この筋肉に抱きしめられての救出。それが今のめぐるの筋肉好きの性癖に繋がっている。若かりしころの泉田の筋肉に開花された男は、消防学校で泉田の筋肉をもちろん触った。しかし、すでに現役を引退していた泉田の筋肉は憧れどまりで、めぐるに恋心を芽生えさせることはなかった。  今彼を夢中にさせているのは…… 「庸治さん、今夜も遅いのかな」  めぐるは、その日一日、出動要請がかかるまで上の空だった。
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