第四話 動き出す影

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 めぐるは、玄関で庸治を見送ったあと、自分の手を見つめた。好きな男に抱きついた手は、欲張りで、仕事へ向かう庸治を引き留めようとしてしまった。 「もっかいしてくれないかな……」  ほろりと崩れた顔が、庸治の言葉を思い出し、鍵に手を伸ばす。がちゃりと重たい音のあと、ベッドで聞いた庸治の声を思い出す。 「絶対に捕まえてやるから……待ってろ……って何だったんだろ」  ぼんやりと考えていると、スマホが鳴る。河島消防署からだ。電話に出ながら、出る準備をする。案の定、緊急の出動要請だった。  消防署につくと、由川や長野と共に消防車に乗り込む。 「俺たちが最後ですか?」 「ああ、ほぼ全員出ている」 「そんなに広範囲なんですか?」 「同時多発的な火災だと聞いている」  長野が「意図的ですね」と、頬を叩いて身を引き締めた。無線から現場の状況が伝えられる。『252なし。252なし』と繰り返している。  サイレンの音で車が避けていく。由川がサイドミラーを見て小さく舌打ちをした。 「出たよ。緊急車両の後ろにつけるやつ」  救急車や消防車などの緊急車両が通過する際、あえてその後ろにぴったりと張り付いて飛ばす車がいる。  めぐるの位置からは見えない。 「呑気でいいよな」 「車間距離大丈夫そうですか?」  運転する長野が心配そうに聞く。 「大丈夫だ。見えるか? シルバーの軽自動車だ」 「見えます。一応、注意しときますね」  黒い煙が近づくころ、再び由川が舌打ちをした。 「最後までついてきたぞ」 「え? 軽自動車ですか?」 「野次馬根性上等だな。無視だ無視。行くぞ」  現場につき、三人の消防士は軽自動車には目もくれず消火活動に入った。  現場には、隣の戸塚消防署の消防車、河島の別の消防車が来ている。大量の水があちこちから放水されているのに、火は収まる気配を見せない。 「俺たちは、隣の家屋に燃え移らないように、放水するぞ」  由川の指示で、めぐるはホースを延ばした。重たい大蛇のようなそれを持っていく。ばちばちと木造が燃える音が耳に張り付く。いつもは、自慢の筋肉を駆使して俊敏に動くのに、今日はやけに体が重たい。火の中に飛び込んでいるわけでもないのに体は熱く、目の前が妙に霞む。頭を振ってもばちばちという音が消えない。それは、外からではなく耳の奥から聞こえる。  この音は、現場の音ではなく、過去に自分が巻き込まれた火災の音だと気づく。墓参りに行ったせいなのか、ここぞという大切な時なのに、力が入らない。  ホースをしっかり握っていなかったせいで、水が頭から降ってくる。 「やばっ」  垂れてきた水が鼻先についたとき、めぐるは、それが水でないことに気が付いた。 「ガソリンの臭い……」  ばちばちという音と長野の叫ぶ声が重なる。そして一瞬で目の前が真っ赤に燃え上がった。  過去の幻覚か本当に火だるまになっているのか、めぐるには分からない。目の前が真っ暗になり、自分が立っているのか座っているのかも分からない。体中が熱く、耳にあの音がずっと爆ぜ続けている。  もしかすると、このまま両親のもとへいけるのではと、めぐるはもがく腕から力を抜いた。 「めぐる!」  しかし、力強い声がして、下半身に力が入る。 「めぐる! おい!」  目をあけると真っ赤な視界は消えていた。代わりに焦げ臭い消防の服が鼻をつく。目の前には、炎ではなく、庸治がいた。 「生きてるか?!」 「は、はい……」  庸治は、「よかった」と崩れ落ちかけていた。しかし、その腕を誰かに捕まれる。 「ぼさっとすんな達川! お前の仕事はこっちだろ!」  庸治は、ためらいを見せたが、「適材適所だ」と、いつかも言っていた言葉を放ち、めぐるの頬を一度撫でてその場を去った。 「平嶋先輩、大丈夫ですか?!」  長野は、ホースを握りしめたまま、駆け寄ってきた。ホースの先端は濡れていて、めぐるの体も今度はガソリンでなく水でぐっしょり濡れている。 「急に、先輩が燃えて、だ、大丈夫ですか?!」  長野の目には涙が浮かんでいる。いつもなら後輩に声をかけるが、めぐるは去っていく庸治を見つめていた。ここには場違いなスーツの集団と物騒な話をしている。 「遠藤のやつガソリンを持っているぞ」 「まだ近くにいるかもしれない」 「遠藤のものとみられる軽自動車は一緒に燃えていました。徒歩で逃げている可能性があります」 「規制線を張れ。野次馬もろともここから出すな」  そのうち、庸治は見えなくなり、めぐるは、消火活動から外され、病院へと搬送された。
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