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悔しい勝負以来、めぐるは鍛錬に熱が入っていた。消防署での訓練にもそれは表れていた。
「平嶋、もう上がって良いぞ。先に休憩入れ」
「もう、あと、ワンセット!」
隊長・由川の気遣いを無視し、めぐるは地面についた手に力を込め腕立て伏せする。盛り上がる上腕二頭筋には汗が滲んでいる。平嶋の熱心な姿に同じ隊員で後輩の長野は腹筋をしながら感心の視線を向けた。
「平嶋さん、最近気合入ってますよね」
「これ以上、筋肉馬鹿になってどうすんだ」
隊長と後輩の呆れた声など聞こえないめぐるは、その日もジムに行った。しばらくするとあの中年も来た。ほぼ同時にランニングマシーンに乗る。
二度目の勝負がスタートする。そしてこの日も——
「はあ……はあ……」
めぐるが最後まで残った。男は陽が沈むと涼しい顔で下りていった。つまり……
「また、負けた」
同じ状況が何度も続いた。いつも男は涼しい顔でトレーニングを終わらせる。めぐるの筋肉が増えていくのと比例して悔しさも増えていく。
めぐるは夜勤の日は来れない。しかしそれ以外は必ずジムに行った。男は必ずいる。
「今日こそ!」
めぐるは何度目かの勝負の為に、ジムに足を踏み入れた。
あの中年は今日もいた。すでにランニングマシーンを稼働させ、一定速度で走っている。背中は腕同様逞しい。肩はラグビー選手のように膨らみ、肩甲骨のあたりまで黒いシャツを浮かせている。その背中にライバルとしての熱視線を勝手に送り、めぐるも横のランニングマシーンを稼働させた。めぐるが男よりも速度を上げる。男はそのような勝負があると知らない為、見向きもしない。男の視線はおもしろみのない外の景色をじっと眺めているだけだった。
しばらく走行する。めぐるの方が速度は速い。調子に乗ってもう一段階あげる。すると、男も速度の段階を上げた。しかも、めぐるより速い。めぐるも負けじと上げる。そして男も。ほぼほぼトップスピードと思われる速度で二人は走り続けた。ランニングシューズがベルトの上で激しく音を踏みならし、次第に同じトレーニングルームにいた面々も二人の静かな勝負の行方を固唾を飲んで見守り始めた。
──バンッ
四足の激しい音を裂くようにドアが開く。入ってきた施設の従業員はめぐるのスマートフォンを握っている。
「平嶋さん! 電話だよ、署から電話!」
背後から呼ばれためぐるは、走りながら振り向いた。
「出動ですかっ?! ・・・・・・うわ!」
低速ならともかく、かなりのスピードを出しながら振り向いたため、バランスを崩した。体勢を立て直そうとするが、つま先がベルトにひっかかり、中年の男の方へ倒れそうになる。巻き込むわけにはいかないと、上半身の筋肉だけで着地点を移動させようとする。床に手をつこうと伸ばしたが、腕を誰かに掴まれ、めぐるは倒れることなく、しかも床からもマシーンからも足が浮いていた。
「大丈夫か?」
「へ?」
めぐるは男にお姫様だっこされていたのだ。あまりの恥ずかしさにめぐるの顔は真っ赤に染まり、体中から湯気が吹き出そうなほどだった。
男はめぐるの顔をまじまじと眺めている。
「平嶋さーん!」ともう一度呼ばれるまで、めぐるは放心状態だった。
「今行きます!」
電話は緊急の出動要請。このような時のために、めぐるはスマートフォンを受付に預けているのだ。急いで着替え、ジムを後にする。駐車場を駆け、黒い車に乗り込んだ。
その様子を男は再びランニングマシーンの上から眺めていた。
ウォーキング程度のスピードでマシーンを利用している老人に男は尋ねた。
「あの兄ちゃん、何者だ?」
「ん? ああ、めぐる君? 高校の時からのここの常連さんだよ。あんた、見た目の年齢の割にあのめぐる君と良い勝負だったね」
「あの?」
「めぐる君、そこの河島消防署の消防士さんだよ。どっかで火災かね?」
「ふーん」
窓の外を眺めると、遠くで黒い煙が上がっていた。消防士にも関わらず、それに気づけないほどめぐるは集中していたのだ。そしてそんなめぐるが張り合ってきているのに、男は気づいていた。
「いつもこの時間に来るのか?」
「ああ、そうだよ。夜勤の日は来ないけどね」
「へえ」
それっきり会話はなし。あとは日が暮れるまで、走り続けた。太陽が沈んだのに、住宅街は燃えている。黒い煙が上がり、夜に恐怖の闇を漂わせている。そしてその闇を払うためジムの前を何台もの消防車が通った。
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