第一話 静かなる勝負

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 結局、男がジムを去るまで火の手は収まらなかった。鎮火されたのはそれから二時間後。町工場が燃える火災で、製造していた製品に油分が含まれていたことから短時間での消火に至らなかったと、翌日のニュースは報じていた。そして男の職場でもその話題で持ちきりだった。男が出勤すると、隣のデスクの若い男が声をかけてきた。 「昨日の火災すごかったすね。あっ、おはようございます、達川刑事」  男の正体は河島警察署に勤務する警察官だった。名前は達川庸治(たちかわようじ)。 「みたいだな」 「今日の張り込みで近く通るから見ていきませんか?」  しかも刑事だ。 挨拶が遅れるほど昨日の火事が気になっている青年は庸治のバディ・向井田。向井田はわざわざ家から新聞紙まで持ってきていた。 「そうだな」  庸治の返事に向井田は勢いよく新聞紙から顔を上げた。 「おお?! 真面目な刑事が寄り道を許可してくれるんすかっ?!」 「馬鹿言うな。もしかしたら今追ってる事件に関連してるかもしれないだろ。だからだ」 「今回の火災、まだ犯人見つかっていなみたいっすからね。町に貢献していた町工場らしいし、人に恨まれるような事もなかった。つまり・・・・・・」 「赤犬の可能性が高いな」 「ですよね」  赤犬――警察用語で放火だ。 「あいつらのしわざっすかね」 「それを調べに行くんだろ」 「詐欺罪だけじゃなくて放火もだったらかなり手の込んだ犯行っすよね。絶対捕まえましょう」  向井田も興味本位で新聞紙を持ち込んで眺めているわけではなかった。今、二人が追いかけている事件に関連があると思ったから持ってきたのだ。もちろん、庸治も同じ考えで、張り込みに火災現場の視察と、頭の中で予定を組んでいく。 「よし、行くか」  二人は覆面パトカーに乗り込み、署を後にした。  まずは火災現場に行く。火は完璧に鎮火されている。工場の柱は真っ黒になって、いつ倒れてもおかしくない状態で建っている。消防士の姿もある。警察官もいる。しかし見慣れない顔だった。 「ここは戸塚警察署の管轄か」 「そうっすね、ちょうど河島と戸塚の境の工場みたいっす」 「相当ひどかったんだな」 「この焼け具合をみるとそうですね。あれ? どこ見てるんすか?」  黒い建物の中から、向井田は吹き抜けになった屋根を見ていた。青空が痛いほど晴れやかだ。しかし、火災の悲惨さを嘆いていた庸治に視線を戻すと、庸治は現場ではなく、少し離れたところにいた消防士を見ていた。 「お知り合いっすか?」 「戸塚消防署に知り合いはいねーよ。河島の方にちょっとな。昨日出動になったみたいだから、他地区にも応援要請をするなんてよっぽどだったんだろうよ」 「その消防士さんって・・・・・・」  向井田は庸治の顔を目を細めてみた。 「何だよ」 「女っすか?」 「はあ?! 男だよ」 「なあんだ。残念。刑事がようやく恋すると思ったのに!」  肩を落とす向井田に、庸治は「結婚願望がないんでね」と言った。なおも唇をとがらせる向井田の肩にグーを入れる。 「いちいち俺が他人を話題にだす度に「女か?」「恋か!」騒ぐの止めろ。この前は振り込め詐欺被害の80代の婆さんと俺がしゃべってたら言っただろ!」 「いやあ、ストライクゾーン広いなって思ってたんですよ。さすがにあれは違っててよかったと思います」 「ったく。とりあえず俺はもういいんだよ。お前こそ、今の事件片付けて、早く帰れるように努力しろよ。せっかく二人目が産まれたってのに」  向井田は29才。つい最近二人目が産まれた二児のパパだ。 「嫁さんの機嫌悪いんですよ。やばいっすかね」 「嫁のいない俺が知るかよ」 「そうっすね!」  ニシシと笑う向井田。対する先輩刑事の庸治は今年で42だ。これほどまでに年の差が開いているのに、二人はとても仲が良い。最低限の規律を守れば、庸治は何も言わない。バディが必要不可欠な刑事に、厳しい規律より信頼関係が大切だと分かっているからだ。仕事優先。結婚を諦めてまで刑事という仕事を続ける庸治のポリシーがそこにあった。 「次行くか。戸塚署にあとで火事のあらまし聞いといてくれ」  庸治は再び覆面パトカーに乗り込む。「はい!」と返事をした向井田も乗り込み、二人は別の現場へと向かった。 「そういえばもう一個の張り込みどうっすか?っていうか、今日は俺が行きます」 「俺が行く。どうせ独り身だしな」  向井田は先輩の優しさにこれ以上は甘えられないと食いつくが、庸治は折れない。 「いいんだよ。身体鍛えるのにもちょうど良いしな」 「ジムで張り込んでいるんすよね?」  めぐると庸治が勝負をいていたジム。庸治はあそこで張り込みをしていたのだ。 「ちょうどジムの前の住宅が怪しい。インターフォンを押しても毎日留守だしな。二階のランニングマシーンのところがよく見えるんだ。もう数日張り込んでるけど、まったくホシが表れない」 「本当にそこにいるんですかね?」 「俺の勘はそう言ってる。ホシじゃなくてもあそこには何かある……はぁ……」  助手席に座る庸治は窓にもたれた。 「ほら、やっぱり疲れてるんじゃないっすか! 俺が変わります!」 「違えよ・・・・・・なんか、変なやつがいるんだ」 「共犯者とか?」 「そっちじゃなくて、ジムにだ」 「はッ、もしかして──」 「女じゃないぞ」  本日二度目の向井田の嘆きの声がパトカーに響く。
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