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夕方。庸治は張り込みの為、ジムに向かうと、すでにめぐるがいた。ランニングマシーンで走る後ろ姿はきれいなフォームで美しい。今まで気にも留めていなかった庸治だったが、勝手に勝負を挑んできた男が自分と同じ命をかけた仕事をしていると思うと見方も変わる。趣味で鍛えているわけではない身体は見惚れる程整っている。その肩にのしかかる責任が重いことも分かる。
鍛えられたそこへ、庸治は手を乗せた。
「お疲れさん」
筋肉質な体がビクンと跳ね、昨日の様にバランスを崩しかけた。急いで停止ボタンを押しためぐるは二度目のお姫様抱っこを回避した。
「悪いな。急に声かけて」
「い、いえ」
めぐるは上腕二頭筋をさすりながらランニングマシーンから降りた。その仕草を、昨日の疲れととった庸治はもう一度労いの言葉をかけた。
「お勤めご苦労様。昨日の活躍、新聞で読ませてもらった」
「なんで俺が消防士って知ってるんですか?!」
「ここにいた爺さんに聞いた」
「そうですか……」
筋肉をやたらきにするめぐるは、そのまま頭を下げるとトレーニングルームを出て行った。闘争心丸出しだった男の疲れきった様子に、庸治はそれ以上声をかけることをやめた。そして張り込みに戻る。相変わらず目の前の住宅から人が出てくる気配はない。仕事モードに切り替えてランニングマシーンの上で体をしごく。庸治を一瞥しためぐるの視線にも気付かなかった。
いつもと様子がおかしいめぐるは、トイレの個室で深呼吸した。そして両手で顔を覆う。
「やばい……たった」
指の隙間から自身の膨らんだ下半身をチラ見する。そこにはまごうことなき股部分が隆起したトレーニング用の半ズボン。熱を収めるためにもう一度深呼吸するも、体中に残る庸治の筋肉の感触に失敗してしまう。
原因は昨日のお姫様抱っこ。庸治の胸筋・上腕二頭筋、めぐるを抱き上げたびくともしない太い手首が、筋肉フェチの同性愛者平嶋めぐるにクリティカルヒットした。
一目惚れならぬ筋肉惚れ。惚れてしまえば、顔も好みに変わっていく。最初勝負していた時は闘志を燃やすだけだった庸治の顔は、今や、めぐるの心を揺さぶる。
「好きだあ」
情けない声が出る。股間を膨らませればトレーニングにならない。昨日の今日で行くのはまずいと思ったが、見たさに来てしまった。予想通りの身体の反応に即トイレへ退場となってしまった。
名前は? 年齢は? 既婚者なのか?
ランニングマシーンの上のライバルだった時には思い浮かばなかった疑問が実をつけていく。
若い体は恋と性欲が隣り合わせ。結局、トイレにしては長い時間を経て、めぐるはマシーンの上に戻ってきた。
「隣いいですか?」
今までそんなこと聞かずに勝手に勝負を挑んできた男は発言まで片思い中に変わっていた。
「どうぞ」
帰ってきた低い声にドキドキしながら、めぐるはマシーンを稼働させ、ついでに筋肉も盗み見る。にやけそうな顔を必死に抑える。その引きつった表情に気がついた庸治は「勝負するか?」と尋ねた。
「え?」
「昨日は途中棄権だったからな。俺も途中棄権するかもしれないけど、時間があるなら」
めぐるが自分と勝負をしていたことに気が付いていた庸治。張り込み中というのは隠しつつ、途中棄権だけ匂わせ、若い消防士の相手をしてやろうと思った。
「いいんですか?」
「ああ」
気持ちよく返事しながら速度をめぐるに合わせた指に、めぐるが危惧していたものは光っていない。
庸治に心を奪われているめぐるは強引にも
「もし勝ったら、ご飯奢ってくれますか?」
と、お願いしてしまう。
「あんたが勝ったらな」
淡い思いを抱かれていると思わない庸治は快諾した。
そしていつもと違う勝負が始まる。
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