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結果は庸治の勝ち。そして庸治が途中棄権することもなかった。つまり今日も張り込みは失敗。窓の外に悔しい視線を向けた後、ベンチで伸びているめぐるを見た。シャツは汗で濡れ、体力をかなり消耗したのか瞼が閉じている。
「俺の勝ちだな」
庸治がカラカラ笑いながら言うと、重たそうに瞼が上がり、視線は逸らされた。
「くそ。もう体が動かない」
格好悪い姿を見せてしまったと恥ずかしがるめぐるに庸治はとんでもないことを言う。
「飯行くか」
めぐるは勢いよく起き上がった。
「まだ動けるじゃねーか」
若者の面白い反応に、庸治は笑い、そして手を差し出した。
「予定がないなら」
「行きます! 行かせてください!」
二人は着替えるべくロッカーへ。そこでトレーニング用の服装からスーツに着替える庸治。一度お目見えした背筋がスーツを纏うまでの一連の流れをめぐるは血を滾らせながら見ていた。クリーニングされて皺の無い袖に腕が通されたとたん、美しさと知的を醸し出す紺色の生地に男らしさが加えられ、持ち主の筋肉を浮かび上がらせる。肉体労働をしていると予想していためぐるは、目の前のスーツ姿の庸治に興奮してしまう。そしてその男と今から食事にいけると思うと、気分は最高潮に達する。ジャケットの袖下から覗くワイシャツの袖ボタンを閉めながら、庸治は「嫌いなものあるか?」と尋ねた。
「ピーマンと人参とグリンピースとーー」
めぐるの口から飛び出る数々の野菜に、庸治は眉をしかめた。
「好き嫌い多すぎだろ。でかくなんねえぞ」
「もう十分大きいので!」
嬉しさも含め、笑顔を爆発させるめぐる。
めぐるは徒歩、庸治は車で来ていた為、めぐるは好きな男の運転する姿まで拝めることとなった。そんな彼に連れてこられたのはどこにでもある居酒屋。
ビールにつまみ、そして主に肉料理をオーダーする。庸治がサラダも頼むと、めぐるは目をぱちくりさせた。
「一緒に食うぞ」
「遠慮しておきます!」
「ダメだ」
めぐるは面倒見のいい庸治にますます惚れてしまう。そしてずっと知りたかったことを口にした。
「名前、教えてください」
「ああ、そうか。俺は昨日、爺さんに名前聞いたから知ってたけど、こっちは名乗り忘れていたな。達川だ。達川庸治。そっちは平嶋めぐるであってるな」
「はい! めぐるって呼んでください!」
目を輝かせるめぐるに、庸治はぷっと噴出した。
「犬みたいだな。でかい小型犬みたいだ」
「でかい小型犬? でかいのに小型犬なんですか?」
首をかしげるしぐさも犬のよう。
「とりあえずめぐる、これ食え」
お通しで来た冷やしトマトをめぐるの口元に持っていく。めぐるからすれば、俗にいう「あーん」という行為だが、箸の先には嫌いな野菜。後ずさりをしてしまう。
だがビールが来たことで、伸ばされていた庸治の腕は引っ込んだ。乾杯し、甘い時間は消えた。
「食べたら褒めてくれましたか?」
「ん?」
ジョッキに口を付けたまま、庸治は視線を上げた。
「ちゃんと食えばな」
「じゃ、食べます!」
めぐるは口を大きく開けた。庸治はそこへトマトを突っ込む。顔をしかめるめぐる。
「無理すんなよ」
庸治の言葉に首を横に振る。
「ギブアップか?」
ふきんを差し出した庸治にもっと激しく首を振る。まだ頑張るの意に、庸治は微笑み、そして頭を撫でた。
「んぐッ?!」
好きな男に頭を撫でられ、めぐるはトマトを噛まずに飲み込んでしまった。「よくできました」とまた撫でられ、照れ隠しにビールを一気に飲み干した。
こんな良いことがあっていいのかと、空のジョッキを見つめるめぐる。そんなめぐるを見つめながら庸治は胡坐をかいている足の間で通知ランプを点灯させるスマホをこっそり見た。相手は向井田。「了解です」の短い返事。その返事に至るメッセージを庸治はめぐるの顔を見ながら思い返していた。
庸治が向井田に送ったメッセージ、それは……
──現在、平嶋めぐると接触中
若い青年を前に、悟られないように、庸治は刑事の眼差しを向けていた。
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