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第二話 砕けた勝負
夜勤の日以外、二人は毎日のようにジムであった。
「今日こそ勝ちますから!」
意気揚々と宣言しためぐる。二人はマシーンの上に乗り、速度を同じにしていく。開始20分。庸治の横顔を盗み見ていためぐるは、真っ黒な瞳が鋭く光るのを見逃さなかった。まさかスピードアップかと危惧したが、それとは逆にスピードは下がり、庸治のマシーンは完璧に停止した。めぐるの勝利でないことは確実。
「悪いめぐる。この埋め合わせは絶対する」
そう言って、有無を言わさぬ眼光で庸治はジムを去った。前に言っていた「途中棄権」かと思い、めぐるは帰っていく庸治の後ろ姿を拝もうとマシーンの上から窓の外を眺めた。去ってから5分も経っていないのに、スーツにきちんと着替えた庸治が駐車場を駆け抜けていく。翻ったスーツすらかっこいい。
「あれ? 車は?」
庸治は自分の車を素通りした。そして道の向かい側の住宅に向かっている。めぐるは数刻前の記憶を辿った。庸治が去る前に、女性がひとり家に入っていくのを目撃していた。女性の家に向かう庸治の姿に、めぐるの心臓がずきりと音をたてる。
「違う……そんなんじゃない……」
だが、庸治はインターフォンを押した。女性は出てこない。何度もインターフォンを押す姿。それを見ることが辛くて、窓から視線を外したくなる。だが、答えが知りたかった。
結局女性は出てこなかった。しかし、ほっとしたのもつかの間。
「そんな……」
庸治は門扉を開け、玄関のドアノレバーに手を伸ばしていたのだ。しかも鍵がかかっているのか阻まれている。さすがにあきらめるかとめぐるは思った。
胸を押さえるめぐる。その視線の先で、庸治は腕を振り上げた。そしておしゃれな模様の玄関扉の真ん中についているステンドグラスを叩き割ったのだ。
ジムに音は伝わらない。しかし確かにめぐるの中でガシャンッ!とひび割れる音は響いた。貧血のように頭の中がぐらつくめぐるが見ていることに気付かぬまま、庸治は割れた個所から手を入れ開錠した。そして中へと消えていく。
「終わった」
めぐるはランニングマシーンの上にしゃがみこむ。もちろんコンベアーは止まっていないので、そのまま後方に流され背中から盛大に床にたたきつけられた。頭を打ったが気にも留めない。むしろ、今見たすべてのものが消えてほしいと思った。
「失恋……しかも、なんか犯罪まがいのものまで見た気がする……」
──好きな男には好きな女がいて。その女の家が見えるジムで機会を伺っていた。そして出てこない女に痺れを切らし、めぐるを虜にした筋肉を駆使して……
「はあ」
めぐるが背中と心に痛みを感じながら天井を眺める。
「おい、なんかパトカーきたぞ」
ジムの客の声に反応し、勢いよく体を上げると、夕闇迫る街に赤色灯が重なる。そして件の住宅の前で停まった。
窓際にやじ馬が集まる。だが、事の顛末を見ていためぐるは背を背け、トレーニングルームを後にした。ロッカーで壁に額を小突けながら何度も「好きな人が女性の家に無理矢理押し入ったときはどうしたらいいんだ」と解決しない難題をロッカールームに何度もぼやいた。
やじ馬になっていた客も閉店間際になり、ロッカールームに集まってくる。逮捕の一部始終を聞きたくなくて、そそくさと退散した。外に出ると、駐車場には庸治のセダンタイプの車がさみしそうに残っている。パトカーの姿はない。
帰路につくめぐる。住んでいるアパートの近くに差し掛かると黒い不気味なシルエットが浮かび上がる。それは裸の鉄筋が丸出しになり、地面には炭となった燃えカスが散乱し、廃墟のようになっている。
「ここ、まだ片付いていないのか」
この廃墟のような建物は先日火災が発生した町工場だ。この裏手にめぐるのアパートがある。つまり町工場とアパートが戸塚と河島の境なのだ。めぐるのアパートは比較的新しい外装で、内装は一人暮らし用。家賃も比較的安いが部屋の半分は空室だ。
ポストをチェックする気力もなく、帰宅早々ベッドにダイブした。忙しいせいで干す暇がなく、だいぶ男臭い。男臭溢れるその上で、めぐるは自身の雄を露わにした。
「最後にしよ」
庸治に恋して、何度も彼を脳内で妄想した。彼の逞しい体に抱かれる自分を繰り広げた。それも今日で終わり。いつもより長く、想いを捨て去るように、めぐるは快楽に身を委ねた。
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