第二話 砕けた勝負

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 翌日から庸治はジムに現れなくなった。車は警察が回収しに来たのだろうか、なくなっていた。あの住宅には時折警察が出入りしている。庸治は女性を犯したのか?乱暴したのか?どちらにしても窓の向こうで忙しなく仕事をする警察官の姿に、「未遂」で終わらなかったことは想像に容易かった。  数日後。まだ警察官が出入りする住宅の前を通って、めぐるはジムから帰路についていた。もちろん、今日も庸治には会えなかった。勇気を出して新聞を読んだが、会社員が強姦で逮捕されたニュースは載っていなかった。それでも毎日忙しないジムの前のせいで不安と落胆は拭えない。まだ失恋で傷心した心を抱えながら帰り道を行く。ふと空を見上げると、黒い煙が目についた。火事だ。急いでスマホを見る。着信はない。だが、めぐるは駆け出した。  なぜなら、黒煙が上がる方角は自分のアパートがある方だったからだ。嫌な予感がする。先日、裏の町工場が放火で燃えたばかりだ。  予感は的中する。アパートがある付近から黒煙だけでなく高く上がる炎が見えた。炎の大きさ、おおよその距離からしてやはりめぐるのアパートだ。近くになるとやじ馬も増えだす。それをかき分け現場に到着すると……  自分の家が燃えている。絶望的な現場にも関わらず、めぐるの瞳は真っ赤な炎の中を見つめ、耳はわずかな声ももらすまいと研ぎ澄まされていた。 「兄ちゃん、危ないぞ!」  その声を無視し、やじ馬と燃え上がるアパートの間で、めぐるは炎と対峙した。すると横を誰かが駆け抜けていく。その大きなシルエットに見覚えがあり、めぐるは炎から目を逸らした。  めぐるの横を駆け抜けていったのはスーツ姿の二人の男。その一人は…… 「達川さん!」  めぐるは思わず叫んだ。振り向いた庸治はめぐるをみとめると、顎で炎を差した。めぐるはハッとなりもう一度視線を火事の現場に向ける。そして耳を澄ませた。 「助けて……」  めぐるの耳が微かな声を掴みとり、炎を睨みつける。 二階の窓に揺れる人影。 「人がいます!」  先にそう叫んだのは、庸治と一緒にいたもう一人のスーツ姿の若い男。庸治を引き留めようとしている。救助の手伝いをしてくれるのかと思ったが、庸治は背中を向けたまま、男とめぐるに叫んだ。 「適材適所だ。俺たちの仕事は火消しや救助じゃない。行くぞ、向井田!」  向井田と呼ばれた男は、火事を一瞥し、庸治の背中を追いかけた。めぐるも庸治の言葉で己を奮い立たせた。消防車の音は全くしない。自らが行くしかない。いつでも命を懸ける覚悟はできていた。  めぐるは、向かいの家の庭の水道で水を被り、炎の中に飛び込んだ。階段を駆け上がり、二階の自分の部屋を通り越し、救助者がいる部屋の前へ。爆発の恐れを考え、正面からでなく、横から勢いよく開く。バチバチという音がひどくなり、部屋の中の火災の被害の大きさを物語っている。その中に飛び込むと、外から見えていた人影をすぐに担ぎ上げた。  たまに階段ですれ違うだけの若い男を簡単に運びだし、周りからは歓声が上がる。その歓声に紛れて、サイレンが聞こえ始める。やじ馬が道を開け、やってきた消防車は河島消防署のもの。隊長の由川も現れ、めぐるを見つけると駆け寄ってきた。  由川が声をかけるより前に、めぐるは状況説明をした。 「かなり爆発的な燃え方をしているので火元の特定が困難でした。救助したのはこの男性のみです。まだいるかもしれません」  消防服もなしに飛び込んだことは褒められたことではない。だが、見上げた根性に、この場で由川は何も言わなかった。すぐに他の隊員たちと救助、消火活動にあたる。  火は数時間後に消し止められた。めぐるのおかげで怪我人のみで死亡者はゼロだった。警察と消防による調査の結果、町工場と同じ放火の可能性が高いという。  家の近くに放火魔がいるかもしれない。とても恐ろしい事実だったが、それ以上にとんでもないことがめぐるを襲っていた。
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