×殺人者

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 刑法第199条 ・人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。      ※  僕は罪を犯した。  それはいかなる理由があろうとも、決して許されることのない罪だ。  しかし、いくら正当防衛と言っても誰も信じてはくれないだろう。  なぜなら、相手は……。  はじめは、ただ因縁をつけられただけだった。  肩がぶつかっただのなんだのと。  全然身に覚えがなかった僕は、全力でそれを否定した。  そうして逃げようとした瞬間、男が足を出して逃げ道をふさいだ。 「おいおい、逃げる気か」  そう言って男が要求してきたのは「金」だった。  それも5万円という高くも安くもない金額だ。 「5万で許してやるよ」  ナイフをチラつかせればビビると思ったのだろう、男はニヤニヤ笑いながら僕に言った。 「嫌です」と僕は答えた。  何もしていないのに、なぜ5万も払わなければならないのか。  僕はこういった輩に屈するのが何よりも嫌いだった。  男は一瞬きょとんとするも、すぐに血管が浮き出るのではないかというくらいの形相で睨んできた。 「てめえ、いい度胸してんじゃねえか」  そう言ってナイフ片手に詰め寄ってくる。  目は血走っていて、どう見てもまともじゃなかった。  僕は恐怖心にかられた。  殺されると思った。  ぐい、と胸倉をつかまれた瞬間、僕はとっさに男を突き飛ばした。  まさか反撃されるとは思っていなかったのか、男はあっさりと突き飛ばされて頭からアスファルトに激突した。 「が!」だか「ぐ!」だか、くぐもった声をあげながら男は動かなくなった。  ヤバい、と思った時には僕はその場から逃げ出していた。  人目を避けるように、路地裏ばかりを通って全速力で駆けて行った。  ヤバい。  ヤバい。  ヤバい。  とんでもないことをしてしまったかもしれない。  僕は頭が真っ白になりながら、走り続けた。  けれどもその日は彼女とのデートの日だった。  付き合ってまだ三か月。約束を破ったことは一度もない。  そのため、急にすっぽかすと変に勘ぐられるかもしれないと思った僕は、平静を装って待ち合わせ場所に向かった。  幸い、待ち合わせ場所に彼女は来ていなかった。  来ていたら、焦った顔をした僕とご対面していただろう。  ホッとしながら僕は息を整えて彼女を待った。  高鳴る心臓が抑えられない。  初めてのデートの時よりも緊張しているのではないかと思えた。 「ごめん、お待たせ。待った?」  彼女が遅れてやってきた時、僕は泣きそうになった。  思わず「人を突き飛ばした」と言いそうになった。  けれども、喉から出かかったのを必死に抑え込んで、笑顔で彼女を迎えた。 「ううん、大丈夫」 「よかったー」  ニッコリ笑う彼女を見て、僕はなんだか救われた気分だった。  男が死んだとわかったのは、その日の昼頃だった。  街中のスクランブル交差点の上に設置された大画面の街頭モニターで緊急速報が流れたのだ。  そこには、僕が男と一悶着した場所が映し出されており、そこに男の名前と「死亡」の文字が映っていた。 「あ、これ近くじゃん」  通行人が画面を見上げながらつぶやく。 「なになに、殺人?」 「怖ぇ」  まわりの人々の声に、僕は眩暈がしてへたり込みそうになった。  やっぱり……。  やっぱり、嫌な予感が当たった。  男は死んだ。  僕が殺した。  足元から震えがきた。  顔もきっと青かっただろう。 「大丈夫?」  気が付けば彼女が僕の顔を覗き込んでいる。 「う、うん」 「どうしたの? 顏、青いよ」 「なんでもない。行こ」  僕は彼女の手をつかむと人目を避けるようにその場を足早に去った。  それからのことは、もう何も覚えていない。  何をして、何を食べたか。  どこへ行って、どんなことをしたか。  まったく覚えていない。  彼女が明るく振る舞っていたように感じる。  けれども、僕の頭はすべてあの男のことでいっぱいだった。  そして気が付けばホテルで彼女を抱いていた。  すべてを忘れようと、人のぬくもりを感じようと。  激しく、激しく、激しく。  彼女も、そんな僕を求めるように力いっぱい抱きしめてきた。  精根尽き果てた頃、僕はベッドにうつぶせになりながら彼女に謝った。 「ごめん」  彼女もうつぶせになりながら僕に言う。 「なにが?」 「ごめん」 「だから、なにが?」 「僕は人を……」 「うん」 「人を……」  殺したと言えなかった。  言えばどんな反応があるかわからなかった。  押し黙った僕に何も言わず、彼女はベッドから飛び起きた。 「シャワー浴びてくる」  そう言って、きれいな裸身をさらしながらシャワー室に駆け込んで行った。  僕はそれを眺めながら思った。  彼女とこうして触れ合えるのは、今夜が最後だ。  僕は明日、自首しようと心に決めた。  シャワーの音がしたため、僕は起き上がってテレビの電源をつけた。  僕が犯した事の進展を確かめるためだ。  夜のニュース番組でも、あの男の死亡事件を取り扱っていた。  どうやら全国ニュースになっているようだ。  これはもう逃げられない。  僕はいよいよ覚悟を決めた。  捕まる前に自首したほうが賢明だろう。  そう思い、リモコンに手を伸ばした時「おや?」と思った。  ニュースキャスターから思わぬ発言が飛び出したからだ。 『なお、死亡した男性は腹部を鋭利な刃物のようなもので刺されており、警察はなくなった凶器を捜すとともに犯人の行方を追っています』  腹部を刺された?  凶器がなくなっている?  ちょっと待て。  僕はそんなことはしていない。男を突き飛ばしただけだ。  どうなってるんだ?  そこでハッとした。  そういえば、僕は男が死んだかどうかなんて確認していない。  倒れて動かなくなったから逃げ出しただけだ。  ということは……。  あの男は、あの時まだ生きていた?  全身から脱力感が僕を襲う。  極度の不安から一気に解放された僕は、なぜか泣いていた。 「はは……」  安心しすぎたのか、涙がとめどもなく溢れてくる。 「よかった……」  殺された男には申し訳ないが、僕は心から安堵した。  と、その時、突然彼女のバックからスマホの着信メロディが鳴った。  けたたましい着信メロディに、僕は跳ねるという表現が正しいほど飛び跳ねた。  時刻は深夜0時。  夜遅くのこのタイミングで「誰だよ」と思った。  非常識極まりない。  着信メロディは徐々に大きくなる。  どうやら、そういう設定のようだった。  放置しているとどんどん大きくなっていくだろう。  このホテルの壁が薄いかどうかはわからないが、下手をすると隣の客が怒鳴り込んでくるかもしれない。  そう思った僕は悪いと思いながらも彼女のバックを開けた。  LEDで明るく光るスマホはすぐに見つかった。  それを無造作に取り出す。  相手先は近くの交番になっていた。 「交番?」  なぜ交番から彼女のスマホに着信が入るのだろう。  そもそも、なぜ彼女が交番の番号を登録しているのだろう。  出ようか出まいか迷っているうちに、電話が切れた。  ホッとため息をついたのも束の間。  僕は見てしまった。  彼女のバックの中に、血にまみれたナイフがナイロン袋に包まれて入っているのを。  それは、あの男が持っていたナイフだった。  なんで?  どうして?  なんでこれがここにある?  しかも、血がついている。  頭がパニックになった。  なんだ?  なにがどうなってるんだ?  ふと、僕はさきほどのニュースを思い出した。 『なお、死亡した男性は腹部を鋭利な刃物のようなもので刺されており、警察はなくなった凶器を捜すとともに犯人の行方を追っています』  まさか、と思った。  まさか、彼女があの男を……。  気づけばシャワーの音が消えていた。  スマホの音で彼女がシャワー室から出ていたのに気付かなかったのだ。  バックを開く僕の目の前に、彼女がいる。  全裸で僕を見つめている。  その顔はまるで赤の他人のように冷たかった。 「見たの?」 「……え?」 「見たんでしょ?」  ゴクリ、と僕は唾を飲みこむ。  彼女の目は、何やら怪しげな光をたたえていた。 「このナイフ……」 「見つけちゃったんなら、しょうがないね」  気づけば、彼女の手に別のナイフが握られている。  いつ、どこから取り出したのか。 「今朝、あなたがあの男と口論してたから、隙をみてあなたの鞄に入れようと思ったんだけど……遅かったみたいね」 「……なに、言ってるの?」  彼女は冷たい目で近づいて来る。  キラリと光るナイフが異様に眩しく感じた。 「しつこかったのよ、あの男。私に何度もつきまとって。いつ殺してやろうかと思ってたら、偶然あなたと口論してるところ見ちゃってね。あなたが突き飛ばして逃げ出したから、私がとどめを刺してあげたのよ」 「……なに、言ってるの?」  思わず同じことを二回も聞いてしまった。  いや、それ以外の言葉が出てこない。 「まだわからない? あなたを犯人に仕立て上げようとしてるのよ。自分の彼女をしつこく追い回す男をあなたが殺したことにして。あなたと口論して突き飛ばされてるシーンもきちんと動画で撮ってるしね。状況証拠はそろってるわ」  僕は頭が真っ白になった。  いったい、今僕の身に何が起きているんだ?  現実なのは、目の前に素っ裸の彼女がいて、僕にナイフを向けているということだ。 「ちょっと予定が狂っちゃったけど、ごめんね」  言うなり彼女はナイフを振りかざして襲い掛かってきた。 「ひっ」  慌てて僕はベッドから飛び起きると、部屋の隅に逃げ込んだ。  直後、僕がいた場所にナイフが突き刺さる。  本気だ。  彼女は本気で僕を殺そうとしている。 「なんで逃げるの? 逃げちゃダメ」  彼女の冷たい目が僕を見つめる。  ヤバい。  ヤバいヤバいヤバい。  何か反撃できるもの。  あたりを見渡すと、彼女のバッグが手元にあるのに気が付いた。  中には、あの男の持っていた血の付いたナイフが入っている。  ゆらり、と彼女はナイフを片手に僕に近づいてきた。  今度こそ、確実に仕留めようというのか。  目つきが獣のように変わっていた。 「私のために、死んで」  そう言って彼女が飛び掛かってきた。  僕はとっさにバッグからナイフの入ったナイロン袋を取り出すと、それごと前に突きだした。  直後、ぐにゃりとした感触が手に伝わる。  気づけば、僕の突き出したナイフの刃は袋を突き破って彼女の喉元に突き刺さっていた。 「………」  彼女は、狂喜を帯びた目で僕を睨みつけながら、その場に崩れ落ちた。 「はあ、はあ、はあ……」  時間にしてほんの数分の出来事だったろう。  汗が止まらない。  そして震えも止まらない。  のどがからからになっている。  地面に崩れ落ちた彼女の手から、ナイフがこぼれ落ちた。  そして、すでに息絶えた彼女の顔はなぜか笑みを浮かべていた。  僕は罪を犯した。  それはいかなる理由があろうとも、決して許されることのない罪だ。  しかし、いくら正当防衛と言っても誰も信じてはくれないだろう。  なぜなら、相手は……僕の彼女だったのだから。
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