1.財布

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 僕は、手にとった大人の財布をまじまじと見た。何の獣の革で作られているのか分からないけれど、この財布のざらざらとした光沢の感じる肌触りを気に入った。  周囲は歩く人々で溢れている。スーツを決めて急いで歩く人、子供の癇癪をあやしながら申し訳なさそうに歩く人、友達とスマホを見せ合いっこしながら前を見ずに歩く人。そういう人々は、一様にして忙しく、自分のことだけで生きるのに精一杯なようだった。  きっとこの人達は、僕を見ていない。そうだ、猫ババしてやろうか。  と、魔が差した。  財布を中身を覗くと十万円とカードがあった。本当は、それ以外に小銭とかポイントカードとかレシートとかも入っていたのだけれど、貧相な僕には十万円とカードにしか目が向かなかった。僕はあからさまに目を見開いて、歓喜した。  十万円という大金で、今日は豪華な晩酌を味わうのだ。  「ねぇ!」  そう思っていた矢先、栞の声が聞こえた。すらっとしたジーンズパンツに、ゆったりした白いシャツ。清潔感のある普通のシンプルな服装で、いつの間にか彼女は横に立って、顔を覗き込んでいたのだ。  彼女の髪にはいつも赤く光る髪止めが飾られている。この髪止めがじつは百万を越えるほど高価な代物であることを、前のデートのときに知った。こんな高価なものが側にあるなんて、身体がきゅっと縮んでしまいそうだ。  「なあに?そのお財布、拾ったの?」  喜ぶことも、怖がることも、驚くこともせず、ただ不思議そうに栞は十万円を見ているようだった。  あーあ。栞は、この十万円に何の価値も感じていないんだろうな。だって、財閥組のお嬢様なんだし。  海のようにどっぷりとお金をもつ栞にこんなことを言われてしまえば、 十万円で一喜一憂する自分が情けなく思えた。
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