場面一 同い年の従兄弟

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場面一 同い年の従兄弟

 嘉永三年(一八五〇年)が明けてひと月が過ぎ、そろそろ梅のつぼみが膨らみ始めるころである。  仲春の弱い日も傾き始めた昼八ツ半(午後三時)過ぎ、島団右衛門は、肥前佐賀の藩校、弘道館にある書籍庫の入口をくぐった。  城のすぐ北にある弘道館は、五千五百坪の広大な敷地を有する。五、六歳から十五歳頃までの子弟が通う「外生寮蒙養舎」に六百名、そして、主に外生寮の課程を修了した者のための寄宿制の「内生寮」に二百名、合わせて八百名がここで学ぶ。  島義勇、通称団右衛門は、国主鍋島斉正(直正)公の外小姓兼この弘道館の目付を務めて三年目になる。年が明けて二十九歳になったところである。  書籍庫の中はがらんとしている。二階へ上がり、ほこりっぽい書庫を見回すと、目的の人物の大柄な姿があった。 「枝吉(えだよし)指南役」  呼びかけると、弘道館指南役、枝吉世徳(せとく)は、あからさまに不機嫌そうに、眉間に皺を寄せて振り返った。眼光鋭く、眉は吊り上がり、鼻梁は異人かと思う程にくっきりとして、女性的なところなどかけらもないこの男に睨まれると、大抵の人間は気後れするだろうと思う。  同い年の従兄である枝吉が、藩命による江戸遊学から戻り、この藩校弘道館の指南役に任命されたのは、およそ半年前の八月のことである。 「団にょ」  ふわりと、白い息が広がる。  島団右衛門、の団右衛門を略して、皆が団にょん、と呼ぶのだが、何故かこの男だけは、最後の「ん」が落ちる。  それはこの豪傑肌で快活な友にはどこか不似合いに舌足らずで甘やかで、昔からそうだっただろうか、と記憶を辿っても、全く思い出せない。 「探しとったんじゃ。ちかっと話が―――」 「そん頭は飾りか? そいとも悪いのは耳の方か」  友はぶっきらぼうに言った。 「は?」 「そがん呼び方ばよせ。何度言うたら判る」  幼い頃から家族ぐるみの付き合いで、しかも同い年なので弘道館への入学も一緒なら、その後の課程もほとんど同じで、兄弟同然に育ってきた。その島から「枝吉指南役」などと他人行儀に呼ばれるのが愉快でないのは判らなくはない。だが一応、島はここでは「藩主鍋島斉正公の外小姓」兼「弘道館目付」というお役目でこの男と対しているのであって、そう気安く世徳、団にょ、と呼び交わすのもどうかと思うのだが。  と、言い続けて半年になる。互いに頑固なので、島は「枝吉指南役」と言い続け、枝吉は頑なに「団にょ」と呼ぶ。こうなると、ほとんど意地の張り合いである。  枝吉は呆れた顔で本を棚に戻し、腕組みをする。 「石頭」 「そのまま返す」  言い返すと、友は苦笑する。 「今、よかか」 「ん」 「詩会の件は、やはり無理じゃ」  昨年末に弘道館で定期的に開かれていた「詩会」が廃止されることになった。要するに詩を教えられる者も、学ぼうとする意欲のある者も共に少ない中、これ以上続ける意味はない、という弘道館上層部での決定だが、枝吉は真っ向からそれに反対している。  「指南役」は、下級生への指導を主に行う、教師役としては最も下位の役職である。指南役、助教、教諭、そして一番上が教授となる。就任して僅か半年の指南役一人が抗議しても、学校の決定を転換させることは難しい。 「殿でも、無理か」  藩主斉正公は、詩に堪能だ。だが何かと騒々しいこの時代に、弘道館で学ぶべきことはあまりにも多い。斉正公は断固として己の意志を通す強権的なところもあるが、詩という実用から離れた領域に、自分の嗜好を強要する独裁型の君主ではない。 「殿にご無理と言うんやのうて、おいにはこんこっで殿ば動かす力がなか。すまん」  島自身は殿の御用を務める小姓に過ぎず、また詩に堪能という訳でもない。枝吉の代弁者となるには、率直に言って力不足だ。かといって、弘道館指南役に任命されて日も浅い枝吉が、上役を飛び越えて藩に直訴するわけにもいくまい。  枝吉は軽く頷く。 「無理ば言うた」 「いや」  友は腕組みをしたまま、思案する様子で天井を仰ぐ。何となく申し訳なくなって、島はもう一度言った。 「すまんの」  枝吉は、ふっと口の端を上げる。 「謝るな。無理ば頼んだと言うとっ。若輩の新参者じゃけん、まだ、他につてがのうての」  若輩の新参者―――神童と呼ばれた枝吉の口から出るのに、これほど似合わない言葉もない。  と、思ったものの、やはり、枝吉は枝吉だった。 「上がそン気なら、おいも勝手にやらせてもらうけん」 「何ばすっ気じゃ」  いささか焦って尋ねるが、友は不敵な笑いを浮かべるだけだ。  この友のことだから、何か考えはあるのだろうが――― 「………わさんのこっじゃ、下手ば打っとも思わんばってん―――学生の身とはちかっと違うけんの」  枝吉は、わずかに眉を上げる。 「心配か」 「………まあ、そうじゃ」  島も枝吉も弘道館での学生生活の後遊学し、帰国してから今の役目についた。島は三年目、枝吉はまだ半年である。だから、この一本気で奔放なところのあるこの男を気遣ったのだが、自分がこの友の「先輩格」になったことなど初めてだな、とふと不思議な気持ちになった。学問でも武芸でも、枝吉はいつも島の少し前を歩いていた―――  そんな感慨は、次の瞬間に吹き飛んだ。  突然腕を掴まれ、同時にぐい、と背に手を回して引き寄せられた。 「………おいっ………!」  押しのけようとしながら、慌てて囁く。 「ちょっ………! わさん、こがん所で何ば………!」  枝吉は耳元で言った。 「心配するな。ここでは抱かん」 「だっ………」  あまりに直截に言われて、絶句する。 「今夜亥の刻(午後十時)、宿直(とのい)室に来い」  唖然とするうちに、一瞬、唇が触れ合って、それを口付けだと認識するにもしばらくかかった。挙句、膝が大腿を割り、ぐいっと押しつけられて、短い声を上げると同時に突き放された。 「世徳!」 「「枝吉指南役」じゃろ。島どの」 「………っ!」  全く、この男は! 「用ば済んだんやないとか?」 「なに?」 「そがん物欲しげな赤か顔ばして突っ立っとっと、今すぐここで抱くぞ」 「だっ………誰いが!」  物欲しげとは何だ。  枝吉は声を立てて笑う。島は憤然と踵を返し、どたどたと階段を降りた。  駆け下りて、思わず手近な棚に背を預けて天井を仰ぐ。 びっくりした。いつものことなのだが、枝吉世徳という男は、いつ火が点くか判らない。 『今夜亥の刻、宿直室に来い』  傲慢と形容してもよいほど自信家の友は、島が断ることなど考えもしない。 「勝手過ぎっとじゃろ………」  呟いて、島は額に手を当てる。 傲慢で、手前勝手で、気分屋。  激すれば相手を粉砕せずにおかず、機嫌がいいと、子供のように笑う。  そんな同い年の従兄に、島はやはり、昔からどうにも敵わない。
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