場面二 言葉の代わりに

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場面二 言葉の代わりに

 亥の刻前、島はそっと弘道館の裏門をくぐった。  弘道館には二百人の内生(寄宿生)がおり、亥の刻に消灯、就寝と定められている。  そして宿直室は内生寮とは別棟で、寮の方に監督が常駐するようになった今では、特別なとき意外にはあまり使用されない。だが空き部屋とはいえ、ここで弘道館目付と指南役が情交に及ぶというのはいかがなものか。  だが、ことこの件に関しては、断るとどこへ連れ込まれるか判らないので、よほどのこと以外は従うようにしている。  枝吉は先に来ていて、灯を点して本を読みながら、酒をちびちびやっていた。これまた、弘道館は「酒持ち込み禁止」のはずだがと、目付という立場もあり、島は少しばかりこの友の奔放さが心配になったりする。島が中へ入ると、酒盃を机に置き、立ち上がった。 「来たか」 「………来いと言うたじゃろうが」 「そうじゃったの」  愉快そうに枝吉は言った。島の後ろに回り、羽織を脱がせて無造作に床に放ると、背からふわりと抱いた。  内生寮の方で、消灯時刻を知らせる拍子木が、遠く聞こえた。 「団にょ」  首筋に口付けた友は、ふと気づいたように訝しげに言った。 「えろう身綺麗にしとっけん、風呂に入って来たんかと思うたばってん―――」 「………いんにゃ、風呂は………焚く時間ばのうて」  袴紐を解きながら島は言った。 「城ば下がろうとしたら、上役に呼び止められての。急に明日までに必要な書類ば出来たけん調べよったら、気づいたら五つ半(午後九時)で。慌てて邸ば帰ったとじゃ」  ぱさりと、袴を床に落とす。  帯を解こうとすると、手の甲を包むように握られた。 「わさん、水ば浴びたと? 冷えきっとっ」 「汗やら埃やらで汚れたけんの。今日はちかっと立て込んどったとじゃ」  枝吉は手を離そうとしない。固く骨張った友の手は、女のような柔らかさもしなやかさもないが、大きくて温かで優しい。身体が冷え切っていることもあって、体温が心地よいのは確かだが、それでは服が脱げない。 「世徳?」 「おなごか」  ややあって、呆れたように言われた。抱かれるのはほとんど否応なしに慣らされたが、だからといって、女か、と言われたのにはさすがにムッとする。女子供に成り下がったつもりはない。 「普通おなごは、二月に水ば浴びたりはせん」  真面目に答えたのに、失笑された。 「そがんこっ言うとっとやのうて―――」  両の手を包んだまま、枝吉はぎゅっと島の身体を抱きしめる。自然、己で己を抱きしめるような形になった。 「世徳」  戸惑って名を呼んだ。 「敵わんのう」 「………は?」 「敵わん。何べん抱いても」  敵わん、と言ったか。この枝吉世徳が、自分に?  意外な言葉に戸惑いつつも、促されて、友に向き直った。口付けられ、温かい唇と、熱いほどの舌に絡め取られる。大きな手の平が、冷えた頬や耳を愛しげに撫でる。 「団にょ」  吐息混じりに囁く声は掠れて甘い。この友しか口にすることのない己の名が、耳にひどく優しく響く。唇が離れてはまた重なって、離れて、そのたびに切なさが募り、情欲が昂ぶる。  褥に倒され、枝吉の背に手を回した。枝吉は島の帯を解き、続けて己の帯も解いた。  珍しい。  普通は、枝吉は中々肌を曝さないのだが。  その理由は、すぐに判った。剥き出しになった互いの肌と肌を、枝吉はぴたりとあわせてくる。  思わず、息を呑んだ。  熱い―――  冷え切った身体が、ほとんど本能的に熱を求めた。はだけた胸元から手を差し入れて、夢中で裸の背を抱いた。  世徳。  情交で、枝吉は様々な顔を見せるが、ふとした折に見せるこの優しさには、身体の芯がとろりとする。 「………ふうけもんが。こがん氷ンごっ身体ばしよって」  剥き出しになった首や肩や背をゆっくりと撫でさすりながら、苦笑交じりの声が囁いた。頬や、口元に、湿った音と共に唇が触れる。冷えた足に温かな足が絡んだ。  密着した身体に、友の昂ぶりが触れる。少しばかり緊張を覚えたが、どうやら、まだ仕掛けては来ない。 「梅もまだ咲かん時期に、水ば浴びっ奴があっか」 「………わさんが、不快かと………」 「汗より埃より、こがん冷え切った身体は抱けん」  頬に、また唇が触れる。 「わさんとおっと、こん世徳がたまに言葉ばのうなす」  ぴたりと合わさった肌から、じわりと体温が移動してくる。情欲とは違う穏やかな熱が全身を包み込み、島を安心感で充たす。 「じゃけん、抱かずにおれん」 「………何じゃそいは」 「わさんのごっ鈍(ぬら)か男には、そん方が早か」  ひどい言われようだ。  友の言葉に、島は苦笑するしかない。確かに自分は鈍いところがあるかもしれないが、この友も、肝心なところで言葉が足りない気がする。  枝吉が少し身体をずらして、唇を重ねてきた。膝が大腿を割り、指先が胸元から入り込み、鎖骨をなぞる。冷え切っていた身体は、友の熱で温められ、そして今度は内側から火を点され、じわりと熱を帯びてゆく。  初めて身体を重ねてから、六年になる。 『何しおいは』  己れを持てあますように、友は苛立たしげに繰り返した。 『もう、よか。そン身に判らせる』  中々察してやれない島と、言葉が足りないこの友と。  言葉の代わりに、身体を交わした―――などというと、きれい事に過ぎるだろうか。
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