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場面三 鈍すぎる友の落とし方(四)
「団にょ」
島は足を止め、枝吉を振り返る。
「どがんした」
縁に腰を下ろしたまま、枝吉は口をつぐんでいる。この能弁な男には珍しい。
「世徳?」
友が黙りこくっているので、島は訝しんで名を呼んだ。
「何し―――」
その口から、息だけのかすかな声が洩れた気がした。手の甲に筋が浮き、ふっと、枝吉は目を逸らした。
「―――上がれ」
友の不機嫌な声に、島は咄嗟に意味が判らずに瞬きをした。
「は?」
帰ろうとしたのに。
「何いな? 何ば用か?」
「用?」
枝吉は島の問いに余計に苛立った様子で、草履を脱いで縁に上がり、島の腕を引っ張り上げようとする勢いでぐいと掴んだ。
「ちょ―――何いな? 判った、今上がっけんそがん滾んな」
こうなった場合、四の五の言わずに従わないと、この従兄は癇癪を起こすことを島は知っている。慌てて下駄を脱いで縁に上がると、枝吉は島の腕を掴んだまま、ずんずんと奥へ入っていく。邸内の奥、書庫部屋の隣にある自室の襖を開け、ほとんど突き飛ばすようにして島を部屋に押し込むと、高い音を立てて襖を閉めた。
「おわっ!」
六畳ほどのさして広くもない部屋である。勢い余って危うく枝吉の文机を蹴飛ばしそうになった島は、壁に手をついて危うく均衡を保つ。
「何しおいは」
島を見ずに、忌々しげに枝吉は言った。
「何し―――」
背を向けたまま、何故、と繰り返す枝吉が、一体何を憤っているのか、島には見当もつかない。
「世徳?」
枝吉はようやく島を見た。
「誰いが、わさんの加勢なんぞ頼みにすっか!」
銅鑼のよう、とも形容される太い声で、枝吉は怒鳴った。
「こんおいが、何しわさんっごっ鈍(ぬら)か男を、」
「………そや、悪かった」
島は苦笑し、あっさりそう謝った。従兄のこういう物言いには慣れているので、別に腹も立たない。
「ばってん、そがん滾らんでもよかろう」
宥めると、枝吉は一瞬口をつぐむ。
「何し―――」
また、呻くように言った。
「世徳?」
訝って歩み寄ると、わずかに間があって、枝吉はいきなり島の胸ぐらを掴み、虚を衝かれて唖然としている島を仰向けに床に押し倒した。背を強かに畳にぶつけた島は、何が起こったのか判らず、ただ瞬きをして枝吉を見上げる。
「世徳―――?」
何だ何だ。
島は混乱する。
そんなに腹立たしかったのか。売り言葉に買い言葉の口喧嘩は日常とはいえ、さすがに二十歳も越え、取っ組み合いの喧嘩など久しくしていない。
「ちょ―――世徳、ちかっと落ち着いてくれんか。そがん腹の立ったと?」
「………」
「おいが言い方の悪かったとなら謝っけん。おいはただ」
ふっと枝吉は、頬に苦笑を浮かべた。
「何しおいは、こがん鈍か男ば好いたっちゃろの?」
は?
「もう、よか」
呆れたような諦めたような、どこか匙を投げた様子で枝吉は言った。
「そン身に判らせる」
へ?
ぽかんと見上げた友の眸は、いつもの不敵さを漂わせながらも、どこか甘く柔らかい。
こがん眸もすっとか。
何となく、ぼうっとなって見入っていると、わずかに笑いの形に端を上げた唇がゆっくりと近づいてきて、己れのそれに重なった。
触れたのはほんの短い時間で、湿った音を立てて離れた唇を、島は呆然と見た。
世徳?
何じゃ、今のは。
赤い舌がわずかにのぞいて、ぺろりと唇を舐めた。それはどこか、野犬が舌なめずりをするようで。
ちょっと待て。
「世徳」
ようやく危機感を抱いて名を呼んだのを、友は半ば呆れた様子で、ばっさり切って捨てた。
「遅い」
再び唇が重なって、今更ながらに「まずい」と思った時には、ぬるりと舌が入ってきて、余計に頭が混乱した。
待て、とか、やめろ、とか言いたいのだが、下手なことをすると友の舌を噛みそうで。
しかも同時に、手が頬や首筋をからかうように触ってくる。くすぐったいような、正直言って少しばかり肉欲を呼び起こされるような微妙な感覚に、背筋がぞくりとして、思わずごそりを身をよじった。
見透かしたように、枝吉の手が着物の胸元を襦袢ごと掴み、乱暴に緩めた。素肌に手のひらが触れ、島は動転する。枝吉の手が離れて自由になった方の手で、必死に袖を引っ張った。ふっと唇が離れ、もう一方の押さえつけられていた肩も自由になった。ホッとした島の耳に、しゅるっと、布が擦れあう音が聞こえた。
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