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どうしてこんな男と結婚してしまったのだろう、と高橋智子は思っていた。
夫の和夫は地方の地主の息子で、今は一部上場企業の社員だ。見た目もそこそこいいし、人当たりもいい。結婚した時は、同僚や友人関係から羨ましがられたものだ。
しかし。
結婚してすぐに、「人当たりがいい」という言葉は「外面がいい」に簡単に書き換わった。
夫は時間にうるさかった。決まった時間に起き、食事をし、会社に行き、戻って入浴し、床につく。
彼はそれを智子にも強制した。決まった時間に起きていなければ怒鳴り声で叩き起こされたし、決まった時間に食事や風呂の支度が出来ていなければ頭ごなしに叱られた。
家事は全て智子に任せているくせに、夫は何かと文句をつけた。やれ飯がマズいの、ホコリが落ちていたの、風呂がぬるいのと、夫はあらゆるところに瑕疵を見つけてはネチネチとイヤミを言った。
その上で智子が如何に駄目な女か、そんな女を妻に「してやっている」自分が如何に寛容な男か、滔々と語るのだ。
夫は曜日によって締めるネクタイも飲むサプリも決めていて、間違えることは許されなかった。サプリなどは、わざわざ七つに仕切られたケースを用意し、その曜日ごとに飲むサプリをそれぞれ入れているほどだ。毎回それを用意するのは智子の役割だった。
一番細かいのは金に関することだった。毎日の買い物の度にいちいちレシートをチェックして、これは無駄遣いじゃないか、あれはもっと安く買えないかと指摘された。この男は基本的にケチなのだ。
反論すると、「俺に食わせてもらってるくせに』と言われるのが常だった。専業主婦になったのは、夫に頼まれてのことだ。パートに出ようかと言ったこともあるが、即座に却下された。
智子の自由になる金は結婚前の貯金くらいだが、それもそう多くはない。自然と、結婚前の交友関係はなくなった。
そのくせ夫は、自分に都合のいい時には惜しげもなく金を遣った。部下や後輩と呑んだ時には気前良く奢り、趣味のゴルフでは高いクラブを何本も買っている。
智子が最後に新しい服を買ったのは、いつだったのか思い出せない。
夫にはピーナッツの重篤なアレルギーがあった。緊急用のアドレナリン注射剤・エピペンは手放せない。
以前、夫が何の連絡もなしに部下達を家呑みに連れて来た時。冷蔵庫の中のものを使い果たした智子は、近くのコンビニにつまみを買いに走った。
その際に、他の乾き物と一緒にうっかり柿ピーを買ってしまい、客が帰った後で散々ののしられた。「俺を殺す気か」と言われて、言い返すことは出来なかった。
夫の言葉の九割はイヤミと皮肉と罵倒で成り立っていた。夫婦の対等な会話というものは存在しなかった。言葉は刃となって、智子の心を少しずつ削って行った。
二人に子供がいないことがせめてもの幸いだった。子供がいれば、言葉の刃はそちらにも向かうことは明らかだった。
そんなある日、夫が一週間ほどの出張に出かけることになった。支度をするのはもちろん智子だ。
ワイシャツ、下着、靴下、毎日のネクタイ、サプリ、エピペン、その他もろもろ。それらをカバンに詰め込んでいる智子の横で、夫は自慢のゴルフクラブを磨いている。
「俺がいなくても、家事の手を抜くなよ。毎日、夜9時になったら俺に電話しろ。定時連絡だ、時間に遅れたら承知しないぞ」
「はい」
智子は無表情に答えた。
夫がいない間は、少しは息が出来た。しかし、羽目を外すわけには行かなかった。初日、智子は定時連絡にわずかに遅れてしまい、夫にひどく怒鳴られた。夫の怒声は、離れていても智子をコントロールしようとしていた。ここにいなくても、夫の影は智子の周りに付きまとっていた。
夫の出張が何事もなく終わり、ここに帰って来たら、自分はどうなってしまうのだろう?
出張最終日の夜、智子の携帯電話が鳴った。
夫がアレルギーを発症し、急性アナフィラキシーショックを起こして亡くなったという知らせだった。
☆
「搬送されたのは高橋和夫さん三十六歳、ここへは出張で訪れていたようです」
通報を受けて所轄署から来た中年の刑事に、若い制服警官が報告した。場末のビジネスホテルの一室には、泊まっていた客の荷物がそのまま残っている。
病院に搬送されたこの部屋の宿泊客は、手当ての甲斐なく亡くなったと連絡が入った。今頃、家族の元にも同じ連絡が行っているだろう。
「それで、通報したのは誰だ?」
「俺だけど」
二十歳くらいの若い男が手を挙げた。隣の部屋の宿泊客で、星風大学の演劇サークルの部長だと名乗った。釣り気味の眼が印象的な青年だった。
「ここのビジホは安いだけあって、どうにも壁が薄い。俺ら、アマチュア演劇イベントの準備スタッフの一員として、休みを利用して泊まりがけで来てんだけどね。打ち合わせを兼ねて俺の部屋に集まって仲間内でワイワイやってたら、ここの部屋のおっさんに壁叩かれて、『うるさい!』って怒鳴られてさ。こっちの部屋から怒鳴ってる声が聞こえるくらい、音が筒抜けなんだよ」
と、青年は壁を叩いて見せた。安っぽい音が響いた。
「全く、プライバシーも何もあったもんじゃない。でもまあ、そのおかげでおっさんが苦しげに七転八倒してるのもわかったわけだけど」
「それでフロントに連絡を?」
「部屋には鍵がかかってるし、勝手にぶち破るわけにも行かないだろ。おっさん、ここはよく使ってたようだけど、ホテルの人も面倒くさい客には関わりたくなさそうでね。……ま、今時ホテルのスタッフも非正規が多いから、仕方ないよな。高い金もらってるわけでもないのに、めんどい奴にわざわざ付き合いたくねーよ」
それでも客の生命に関わることなので、フロントの職員はすぐにマスターキーを持ってやって来たという。しかし、場合によっては業務上過失致死も視野に入れなければならないな、と刑事は考えていた。
通報者の青年は、職員が来るまで部屋の前で待っていた。部屋に入った者も、出て行った者も見ていない。職員は客が倒れているのを確認し、すぐに救急車を呼んだ。と同時に、青年は警察にも連絡したのだった──事件として。
床に落ちているものに目を向ける。何か細長いものが目に入った。
「何だこれは?」
「エピペンです。アドレナリンの簡易注射ですね。アレルギー患者が症状を緩和するために、発症時に使用する薬品です」
若い警官が答えた。注射剤は封が開けられ、使用済みなのが見て取れた。
「アレルギー持ちだったのか」
「みたいだねえ」
言ったのは、通報者の青年だ。刑事は青年を睨んだ。
「君、ここの客のことを知ってたのか」
「いーや、全然。ここに来て初対面。てか、あっちは俺のことなんか認識もしてなかったんじゃないかな? ──俺は演劇やってるから、人を観察するのが常でね。おっさんのことも、しっかり観察させてもらっただけ」
青年の釣り気味の眼が、刑事に向いた。自分も観察されているような気になって、刑事は少しだけひるんだ。
「ここらは繁華街から離れてるから、飯食えるとこって言ったら、そこのファミレスくらいだろ? 一週間くらい前だったかな、多分おっさんがここに来た初日だ。おっさん、ファミレスのバイト店員に、やたらしつこく訊いてたんだよ。これにピーナッツは入ってないか、ピーナッツを原料にしたものは使ってないかってね」
青年はチェシャ猫のような笑みを浮かべた。
「それで、だ。俺、今夜の夕飯時にもファミレスでおっさんを見てるんだよ。──おっさん、俺の見ていた限りでは、ピーナッツが入ってそうなものは何一つ口にしていない」
「なに……?」
刑事は思わず青年を見た。青年は挑戦的に微笑んでいる。
「ちなみに、この部屋の中にもピーナッツが入ってそうなものはねーな。アレルギー持ちの大人なんだから、口に入るものには気をつけてはいるだろうが……」
言葉を紡ぎながら、青年はぐるりと部屋を見渡した。
「あれだ」
青年が指さしたのは、テーブルの上に乗っていた小さなケースだった。中が七つに区切られ、曜日ごとにその日の薬を入れられるピルケースだ。中身はほとんどなくなっている。
「おっさんは食後必ずあの中身を飲んでいた。薬じゃないな、サプリだろう。毎日違うものを飲んでたんだ。……もしも、もしもだ。その中にカプセルに入っているものがあったら? カプセルの中身が、アレルゲンを含むものにすり替えられていたら?」
青年の言葉は、奇妙な説得力を伴って周りの者の耳に入って来た。彼が演劇をする者だからか、それとも自信に満ちた表情と態度のせいか。
「おっさんがファミレスに来てたのは、大抵同じくらいの時間だった。恐らく時間とか自分ルールをきっちり守るタイプだ。裏返すと、行動を把握しやすいってことだな」
皆、固唾を飲んで青年の言葉を聞いている。青年は一人芝居の主役のように語った。
「ここは壁が薄い。隣の物音も、実に良く聞こえる。……毎日夜9時に、おっさんの部屋から携帯の鳴る音が聞こえて来てた。初日だけ、何分か時間に遅れてたんだけど、その時おっさんはえらい剣幕で電話の相手を怒鳴りつけてたよ。そりゃもう、こっちが引くくらいに」
多分相手は奥さんだろう、と主演俳優は推測した。
「奥さんであれば、旦那がいつ頃何をするか、行動の予想は出来るだろう。荷物を用意するのも奥さんだとしたら、サプリに仕込みをしとくのも、使用済みのエピペンを『うっかり間違って』入れとくのも簡単だ。サプリを飲ませる時期のコントロールも出来る」
床に転がっていたエピペン。あれはここで使われたものではなく、最初から使用済みのものだったというのか。
「俺らや店員さん達への態度、何より電話での怒鳴り声から考えて、このおっさん、DVとかモラハラとかしてたんじゃないのかね。であれば、アレルゲン盛られても自業自得としか言いようがねーけど……」
一瞬だけ、ふっと青年の瞳が憂いを帯びた。
「惜しむべくは、この奥さんは致命的に運が悪い。よりによって、隣の部屋にいたのが俺だ。気づかなくてもいいことに気づいてしまい、反射的に行動を起こしてしまうような奴だ。──俺が警察にも連絡したのは、」
釣り気味の眼が観客達を射た。
「今夜ばかりは、9時になっても一向に電話が鳴らなかったからさ。まるで、おっさんが出られないのが最初からわかっていたように」
☆
智子は、実にすがすがしく目覚めた。
最高の目覚めだ。もう夫はいない。罵倒されることも、イヤミを言われることも、従わされることもない。
(こんなに上手く行くとは思わなかった)
自分の貯金の一部でこっそりピーナッツオイルを買っておいたり、使用済みのエピペンを一本取っておいて、本当に良かった。
智子はその時、確かに幸福の絶頂にいた。
「ファミレスの店員から証言を得られました。あの日被害者が食べた料理には、ピーナッツ由来のものは一切使われていません」
「被害者の遺体からは、エピペン注射がされた跡は見当たりませんでした。胃の中からは、ピーナッツの成分が検出されています」
高橋智子の最高の目覚めがいつまで続くか、誰も知らない。
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