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『ねぇ、心って、何処にあるの?』
サユリは自問自答してみた。
…………そして、また目をつむる。
瞼の裏の、彼に問いかけてみる。
脳裏に焼き付いてしまった光景。
まだ出会ったことの無い、橋の上で佇む誰か。
黄昏時。
稜線からの残光が、男の顔と重なって陰り、よくわからない。
もしかしたら元々、顔の無い男なのかもしれない。
ユウイチとは違う、細く、けれど力強い腕がサユリを抱きしめ、優しく何やら口にする。
嗜めている?
何と言ったのか?
多分、悲しい顔をしているように感じる。
痛いくらいにきつく抱き締められてるはずなのに、サユリは安らぎのような感覚を憶えてしまう。
……これは……
夢なのか?
空想なのか……?
橋の上で交わす二言三言の間に、日は暮れ、暗転し、そして……今。
ベッドの上でゆっくりと目を開ける。
起床時刻ピッタリに起き上がり、隣のベッドを見るともう既に、ユウイチの姿は無い。
捲られた布団とシーツのシワが、主がいた事を主張していた。
そろりそろりと吹き抜け階段を降りる途中、見通しの効くリビング、ダイニングを見下すと、コーヒーを片手に、TVリモコンを操作しているユウイチが立っている。
シンクの中には役目を終えた皿やフォークが置かれていた。
いつもの出社時刻よりも随分と早く身支度を整え、朝食も終えている様子だった。
彼がサユリよりも早く起きる事は珍しい。
何かあったのかな、と小首を傾げた。
天井の高さまで、大きく切り出された窓の外は快晴だった。
澄み切った雲一つない秋空が広がっている。
突き抜ける程に透き通った淡い水色のグラデーションが鮮やか過ぎて、どこか作り物のようにも見えた。フローリングに乱反射する日差しが眩しい。
TVを消し、リモコンを置いたユウイチが、サユリに気づくと笑顔を見せた。
「あぁ、サユリ。おはよう」
「今日は、早いの?」
「うん、ちょっとね、相手先に寄ってから出社しないといけなくなったんだ。……ごめん。話せてなかったね」
主人の帰りを待たずに就寝してしまったのはサユリの方なのだから、先に謝られるとより申し訳なく思う。
目を細めて、困ったような眉の寄せ方をしながら、首をふるふると動かす。
ユウイチはいつも帰りが遅く、日を跨ぐ事も多かった。初めのうちは帰りを待っていたのだが、彼が0時には就寝するようにと言いつけてからは、それを守るようにしていた。
彼が喜ばないと知ったからだ。
「今日は一段と寒くなるそうだよ。うん、調子は……よさそうだね」
ユウイチの言動は、サユリの事をとても大切にしているのだと常に気づかされる。
子供を産めない身体に引け目を感じ、申し訳なく思うサユリに対して、彼は紳士的に言う、
『君が僕をサポートして欲しいんじゃないんだ。僕が君をサポートしたいと思ってる。気にしなくていい。決めたのは僕で、僕が君といる事を選んだんだから……』
ユウイチの言葉で、何度となく自身の存在意義を再確認させられた。
そしてその度に、彼に献身を誓う。
「今日も、遅いの?」
「う〜ん。どうかなぁ。後で連絡する」
腕時計を見る。
「お、時間だ。もう行かないと……」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
ユウイチは大袈裟な笑顔を向けて、頷くと足早に玄関へ向かう。
その背中を見送る。
出かけていく彼の足音が遠のき、ドアが閉まると、途端に部屋は静まり返った。
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