316人が本棚に入れています
本棚に追加
翌朝アヤメが目を覚ますと、太子様はどこにも居なかった。
朝、居ないのはいつものことだけれど、昨夜は居室に戻られたご様子もない。
ベッドの隣の冷んやりしたシーツに手を触れ、アヤメは密かにため息をついた。
寂しく思うなんて、贅沢ね。このところ、毎夜優しく抱きしめて眠って下さったから、その温もりに慣れてしまったんだわ。旦那様、どうしてもお姉さまたちには会えないと仰っていたけれど、お姉様たちがお帰りになったら、また一緒に寝て下さるかしら。
早く帰って欲しいと思うなんて不謹慎だけど、その日を想像すると心が弾む。
その時は…、キスをしても、…?
旦那様と、キス。
うっきゃあああ、と、想像で恥ずかしくなって布団に顔をうずめて悶えていると、
「姫さま、姫さまっ! たっ、…大変にございますっ!!」
ばあやが派手に飛び込んできた。
「どうしたの、ばあや。そんなに走っては危な、…」
「王太子様が、側室を持たれるそうですっ!」
髪も顔もモシャモシャのまま、ベッドの上に身を起こして、ばあやの足腰の丈夫さに恐れ入っていたアヤメを、ぶった切ってばあやが叫んだ。
「そく、…しつ?」
機械的に繰り返す。単語がすぐに飲み込めない。
勿論、アヤメとて側室の意味は理解している。ボッチャリ国では父王が何人もの側室を抱えていた。アヤメの姉妹は3人だけだが、継承権の異なる兄弟皇子が何人かいる。
「しかも、…しかも、姫さまの姉姫様たちをお迎えになるとか、…っ」
ばあやが切れた息を整える間もなく、一息に言い募った。
瞬間、大岩より重い100トンハンマーが頭に降って来て、アヤメの思考力は死んだ。
太子様、側室、お姉様、…
『アヤメ』
私の名を呼ぶ甘い声も、優しい温もりも、抱きしめられる喜びも、全部、もう…
心にじんわり降り積もっていた得難く温かいものが、手を伸ばす間もなく、空中に霧散していく。
美しく聡明な姉姫たちに適うものなど何もない。
「姫さまっ、ボケっとしてる場合じゃございませんわよ!? あんのキモガマ、姫さまをないがしろにするなんて許せませんわ! 一度鏡をじっくり見て己の所業を顧みるのがよろしいんですわ! いいですか、姫さま。嫁いだばかりとはいえ、姫さまは正式なキモガマガエルの妻なのですから、問い質す権利をお持ちですわ。今すぐ離れに向かいますわよっ!」
アヤメが呆然と喪失感にかられている間に、ばあやが抜群の行動力を見せた。アヤメを掴んでベッドから引きずり出すと、蛙獣人もびっくりの健脚ぶりを見せ、瞬く間に離れの塔に押し入った。
そこで目に飛び込んできた光景に、アヤメは自分でも思ってもみなかった感情が込み上げて狼狽えた。
触らないで。
塔を入ってすぐの広々としたエントランスホールに、右腕にアマリリス、左腕にアネモネをぶら下げたガマニエルがいた。周りを蛙国王、王妃、金と銀の王子、そしてそれぞれの付き人や蛙獣人に囲まれていたが、アヤメの目にはガマニエルに我が物顔でしがみ付いている姉姫たちしか映らなかった。けれど、衝撃で言葉が出ず、それは涙に形を変えた。
「…恐れながら、ガマニエル様はアヤメ姫さまの旦那様でございますよ!?」
ばあやの裏返った声がホールに響く。
世界最高級にグロいガマガエルの怪物にさえも擦り寄ってみせるとは、姉姫たちの性根はそこまで腐っていたのか。そこまでして姫さまを悲しませ、愚弄したいというのか。
ばあやは怒りに震え、姉姫たちを睨みつけたが、姉姫たちは年寄りの怒声などどこ吹く風で、高慢な鼻をツンと反らせ、
「あらまあ、アヤメ」
「ごきげんよう」
「ちょっと笑っちゃうほど無様な格好だけれども」
「目が覚めるほど素敵な朝ね」
むしろアヤメに見せつけるようにその豊満な胸をガマニエルに擦り寄せるのだった。
姉姫たちは、ガマニエルが普段は醜悪な化け物の姿になることを聞き、太陽のもとでその姿を間近に見た時はさすがに卒倒しそうにひるんだが、脳内に焼き付けられた麗しの月皇子の姿があまりに強力すぎて踏みとどまった。刷り込みとは恐ろしいものである。この巨大な醜い着ぐるみの中身が麗しの美男子であると思えば、なんとなく親しみさえ湧いてくるのだから、恋とは盲目である。
しかしながら、妻たちの豹変ぶりに動揺を隠し切れないのが、金の王子ドゴールと銀の王子シルバンだった。なんでこんな醜いガマ妖怪に妻たちが心変わりしたのかさっぱり理解できない。いくら何でもこの妖怪よりはマシだろうという自負がある。浮気するならせめてもっと勝ち目のない奴にして欲しかった。自分らが気持ちよく寝ている間に世間の美醜は180度ひっくり返ったのだろうか。
混乱と動揺が渦巻く中、ガマニエルは別の意味で狼狽していた。
俺の可愛い妻が寝起きのネグリジェ姿を公に晒している!
裸エプロンでなかっただけマシなのか。いや、ダメだろう。こんな姿、他の男に見せちゃダメだろう。
ガマニエルは両腕の生贄たちを振り払ってアヤメに近づくと、自分の上着をその無防備な身体にかけた。とたん、自分を見上げたアヤメのつぶらな瞳から涙の粒が零れ落ちるのを見て、ガマニエルの顔から血の気が失せた。
な、…泣かせた!?
ガマニエルの農茶色の斑な顔色が青ざめるが、元々の顔色が不気味すぎて周りにその変化は伝わらない。
え。俺のものアピールうざかった?
「…アヤメ、どうした?」
ガマニエルが内心激しく狼狽えながらアヤメの前に跪いて、恐る恐るその顔を覗き込むと、アヤメは何も言わずにガマニエルの腕の中に飛び込んできた。
か。…可愛いっ 俺の嫁が可愛すぎて無理っ
拒否られなかったことに正直胸を撫で下ろし、しっかり抱きとめて一日ぶりのアヤメの体温を堪能する。
百戦錬磨の恋の魔導士ガマニエル・ドゥ・ニコラス・シャルルは、現在初恋の真っ只中にあった。
最初のコメントを投稿しよう!