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「ぎゃあああああ―――っ! で、出た――――――っ」
最初に動いたのは御者だった。
耳をつんざくような悲鳴を上げ、この世の終わりと言わんばかりの形相で馬車から飛び降り、「南無南無南無、…」と念仏らしきものを唱えながら一目散に逃げだした。
「あ、ちょ、…トム、…」
慌てて呼びかけたアヤメの声は、もちろん御者の耳には届かない。
ぬかるみにはまったままの馬車と、アヤメとばあやをガマ獣人の集団の中に残し、あっという間に姿を消した。
「うぬぬ~~、出たな! 妖怪、化けガエル! このばあやの目の黒いうちは姫さまには指一本、…っ」
次に動いたのは、ばあや。
勇ましく護身用の短剣をかざしてアヤメの前に進み出ると、ガマ獣人団の前に立ちはだかる。が、ぬかるみに足を取られて後ろにひっくり返り、
「ばあや!」
慌てて手を出したアヤメもろとも泥の中に派手に突っ込んだ。
「こ、転んだ」「転んだ」「転んでしもた」
ガマ獣人たちの間に動揺が走る。
「何をしておるのです! 姫さまの一大事! ボケっと突っ立ってないで手を貸さんかい!」
身体中泥に突っ込んで出るに出られずもがきながら、ばあやが威勢よく吠える。足をバタバタさせるので、泥まみれのスカートの中でペチコートらしきものがチラチラする。
「パンチラ」「パンチラ」「うげ」「見たくない」「しーっ」
ばあやの勢いに気圧されたガマ獣人たちが互いを慰め合いながら、アヤメとばあやの手を引き、泥の中から助け起こしてくれた。
「ご親切に、ありが、…」
全身泥まみれ状態で立ち上がったアヤメが、ガマ獣人にお礼を言いかけると、
ぐるる、ぐる、ぐるるる~~~
カエルの鳴き声に似ているような似ていないような音が辺りに響き渡った。
「誰か鳴いたか?」「鳴いてない」「鳴いてない」「ナイナイ」
ガマ獣人たちの間に困惑が走る。
そこに再びぐるるる…と繰り返される音。一同顔を見合わせて、音がした方に視線を向けると、
「な、何を見ておるのです! わ、ワタクシを愚弄するおつもりか、…っ」
顔を染めた真っ赤にばあやが泥だらけの短剣を振り回していた。
「ばあや。危ないわ。剣はしまって」
アヤメが止めに入ると、ばあやがぐぬぬと唇を噛む。
「姫さま。女子には引いてはならぬときがあるのです。パンツを見られた上、空腹音を聞かれたとあっては、このばあや、あやつらと刺し違えてでも、仇を討ちとうございます、…っ」
「落ち着いて、ばあや。パンツは仇討を望んでないし、お腹が空いたら音が鳴るのは当り前よ。私たち、昨日からろくに食べていないんですもの。お腹が空いているんだわ。むしろ今まで空腹を感じさせなかったことに誇りを持つべきよ」
「くうう、…王の腐れ外道が!」
アヤメの蛙国への輿入れが決まってからというもの、父王はもはやお前はボッチャリ国民ではないと、アヤメへの食事を制限したのだ。いよいよ明日嫁入りとなった昨日からは、嫁ぎ先で豪華なもてなしがあるだろうと何の食料も分けてもらえなくなった。
「金の国、銀の国へお嫁ぎになる姉姫さまたちには豪華な嫁入り支度をし、豪遊の限りを尽くしておいて。その浅はかさが己と国を亡ぼしたことに気づかんのか!」
思い出すだに、ばあやの悔しさは募るらしい。
そもそも、アヤメたちボッチャリ国の3姉妹が嫁入りすることになったのは、父王が贅沢の限りを尽くして散財し、ろくな政策を打てずに国を傾けたからだった。もはや売れるものがなくなったボッチャリ国王は、娘たちを嫁に出す代わりに国への援助を願い出た。絶世の美女と噂の高い姉姫たちには求婚が殺到し、第一皇女アマリリスは大陸随一の金持ち国である金の国へ、第二皇女アネモネは大陸一ハンサムな王族が治める銀の国へ嫁ぐことが決まった。大喜びの国王は、姫たちを迎えに来た金の王子、銀の王子と夜な夜な酒宴を繰り広げたのだった。
その裏で、どの国からも求婚されなかった三女のアヤメは破格の条件で引き取り手を探すことになり、唯一受け入れを承諾したのが妖怪国と呼ばれる西の辺境にある蛙国であった。
「まあまあ、ばあや。これできっとボッチャリ国は再興するわよ」
アヤメは暴走するばあやを優しく宥めて短剣を取り上げると、
「お騒がせしてすみません。お助けいただきありがとうございます。暴言の数々、お許しくださいませ」
ガマ獣人たちに向き直り、丁寧に頭を下げた。
「ううう、姫さまが怪物どもに頭を下げるなどもったいない、…」
そんなアヤメを見てばあやがさめざめと泣く。
「お嫁様、腹減り?」「腹減り?」「腹減り」
一部始終を唖然として眺めていたガマ獣人たちは、動揺と困惑の間で真理に辿り着く。
「蓮根餅」「ある」「ある」「やる」
泥沼で支え合うアヤメとばあやに、ガマ獣人から笹の葉に包まれた乾飯のようなものが差し出された。
それを見た二人のお腹が盛大に音を立て、空腹の二重奏を奏でた。
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