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「アヤメ」
ゆらゆら揺れる意識の中で、自分を呼ぶ太子様の優しい声が聞こえる。
低く響く優しい声。柔らかく沁みる声。甘くかすれた声。
こんな風に自分の名前を呼んでもらったことはなかった。
父も母も美しく利発な姉姫たちを可愛がり、器量も覚えも悪い自分は徐々に彼らの目に入らなくなった。
「すまない。無理をさせたな」
ゆりかごのように優しく揺られて移動する。アヤメを支える大きくてしっかりとした腕。そっと労わるような足取り。包み込まれる清く爽やかな匂い。
温かく包まれる。背中を撫でてくれる。大きな手。力強い手。安心する。
こんな風に誰かに抱きしめてもらったことはなかった。
まるで大切なもののように。壊れないように。傷つけないように、そっと。確かに。
熱気と喧騒から遠ざかり、静かな夜気に触れる。安らぐ。和らぐ。なんという慈しみに包まれた空気だろう。
幸福にたゆたっていたアヤメは、やがて、ふわりと柔らかく心地よい布団らしきものの上に横たえられた。
太子様。ごめんなさい、私、…
そこでようやく我に返る。祝宴の途中で寝こけるとはなんたる醜態。父王が知ったら蹴り飛ばされるに違いない。
必死で目を開けようとするも、強い力に阻まれたように瞼が動かない。どうにも睡魔に抗えない。こんな風に気を緩めてしまうことなんて今までなかった。なのに、どうして、この人に触れられるとこんなに安心してしまうんだろう。
「大丈夫だ。ゆっくり休め」
太子様の手がわずかに頬に触れて、アヤメが無意識に擦り寄ると、弾かれたように温もりが離れた。
行ってしまう。
遠ざかる温もりに寂しさが込み上げて、アヤメは必死にしがみ付いた。
「…、かないで」
こんな風に、自分から何かを欲したことはなかった。
ただ、捨てられないために必死だった。
わがまま言わないから。もっと働くから。何でもするから。重いもの、汚いもの、全部引き受けるから。
だからどうか。要らないって言わないで。お姉さまたちみたいに愛されなくていい。どうかどうか。ここにいさせて。
「…アヤメ?」
ガマニエルは、自分の上着をがっちりつかんで離さない小さな娘に困惑しきっていた。
息を止めてそっと覗き込むと、静かに寝息を立てている。
…寝てる。寝てるよな。
静かに息を吐き出し、嫁いできたばかりの花嫁の寝顔を眺めた。そっと額に手を当てると、閉じた瞼がかすかに震え、まつ毛の奥に涙が光る。痩せた頬にもうっすらと涙の跡が見えた。
文明を衰退させた欲深で愚かな王が支配するボッチャリ国。
滅亡の危機に瀕して自慢の娘たちを他国に嫁がせるも売れ残った3番目の姫。なるほど、確かに容姿に目を引くところは何もない。日に焼けた肌。痩せこけた身体。整わぬ目鼻立ち。この娘は、捨てられるようにここに来た。この湿った蛙の化け物が統治する妖怪の国に。
ガマニエルは小さくため息を吐いた。
満月に似た月の光が窓から差し込み、憂いをたたえる王子の姿を浮かび上がらせる。
絹糸のように艶やかな月色の髪。象牙のように透き通った肌。高く通った鼻筋。
海より深く澄んだ藍色の瞳。長くしなやかに伸びた手足。すらりと引き締まった身体。
「…まだ。目を覚ますなよ」
ガマニエルは月明かりの下、そっと伸ばした指先でアヤメの柔らかい髪を撫でた。
愛らしく笑い、安心しきって自分の腕の中に収まり、無防備に泣く。自分を恐れることも嫌悪することもしない。こんなことは予想していなかった。こんなはずではなかった。
「すまない、アヤメ」
妻を娶らねばならなかった。この不気味な妖怪に嫁ぐものが必要だった。
『それでもお前の許に来ようという殊勝な娘の腸を我に差し出すのだ』
自分は、この純真で愛らしい娘を殺さなければならない。その腸を差し出さなければならない。
この身に刻まれた呪いと引き換えに。この国を覆う忌まわしい呪いと引き換えに。
雲が動き月光が翳る。
暗闇に閉ざされた王城の居室で、苦悩にうずくまるガマニエルに、月の煌めく美男子の面影は欠片もない。そこにはもう、目を背けたくなるほど醜悪で不気味な化け物しかいなかった。
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