Prunus avium

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駆ける。その娘は必死な形相で、腕を乱雑に振り、左右交互に腿は上げ、膝は突き出し、脛は進め、踵は落とし、指先は蹴って、そうして髪を羽ばたかせていた。その様子からは怒りと希望が見えた。白い綿のような花を数多に身につけた桜桃の木々が、娘の通るのに合わせて順々にその梢を鳴らしていた。その様子に気づいた娘はその艶かしい腿を下げていき、完全に走るのを止め、歩き始めた。歩き始めたといっても、歩調は速かった。その証拠に脹脛の筋肉は依然として張っていた。 すると突然遙か遠くに、一組の親子が何やら楽しげに話しているのが見えた。母親に抱っこされた3、4歳ぐらいの少女は1本の桜桃を小さな人差し指で指しながら、ちらちらとお母さんの方を見て何か口を動かしていた。娘には遠すぎて何を話しているのかは分からなかった。しかしはっきりとその様子がまるで近くにいるように見えた。その娘は普段は特に眼がよいというわけではないのだが、どういうわけか時々遠方の光景をまるでその場にいるかの如く見ることが出来ることがあった。以前それで一度、火事を未然に防いだこともあった。 下校中、もう遠くになった校舎の一室のゴミ箱が燃えているのを娘ははっきりと見て、慌てて学校に戻り職員室の先生に訴えた。火はまだ広がる前で、どうにか鎮火することができた。その事件の原因はどうやら不良達の煙草らしい。火をしっかりと消さずに、そのままごみ箱に投げ捨てたことで火が発生したのだ。 そんな娘の変った気まぐれな特技がここでもその姿を現した。子供の可愛らしい人差し指に見とれながら、その先を辿っていくと、なぜかそこにだけ弱々しい枝に吊された、一組の薄赤いサクランボがあった。その一組のサクランボは一瞬にして娘の口元まで来て、娘はそれをぱくりと食べた。味は――と、娘が目線を少し左下にした刹那、その親子の姿は何処かに消えてしまった。娘ははっとし、再び走り始めた。口の中のサクランボも娘の気づかないうちに消えてしまっていた。
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