Prunus avium

4/14
前へ
/155ページ
次へ
娘は桜桃の林の中を走った。白肌色の足を必死に動かして走った。しかし綿のような白い花があまりにも視界を覆っていたため気持ち悪くて、再び途中で止まって、細い両手を膝につき嘔吐した。そうして再び、今度はなるべくその不気味な白さを見ないようにするために細目にして走り始めた。速く抜けなければ。息遣いが荒くなり、細くした眼には涙が少し溜まっていた。鼓動は痛いほど胸を内側から外へ打ち付けていた。早くこの林を抜けなければ、気がどうにかなりそう。そう思いながら一心不乱に走り続けた。 その思いが乱れた枝々で小さくなった天に届いたのか、次第に花の色が桃色に染まり始めた。いや、正確には桜色か。桜桃の林はいつのまにか桜の林となっていた。娘は眼をこれでもかというほど大きく開けた。息遣いも落ち着きを取り戻し、それを感じた心臓も安心を覚え、その朱く膨れた胴体を宥めた。 桜は面白い。娘はでこぼこの道を走りながらこう思った。春には綺麗な花を咲かせ、夏には青々とした葉を生い茂らせ、秋には悲しく変色した葉を落とし、冬には寂しく木だけを残し皆から忘れられ、しかしそのまま忘れ去られないようにまた春には桜色のお化粧で誘惑する。春夏秋冬でここまで姿を変えるなんて、なんて風流な植物なの。まだあどけない娘でも、桜の良さを悟っているようだ。娘は目を輝かせながら、その光を前へそして上へ向けて、しかし桜だけしか見えないこの林に不安を抱えながら、軽快にステップを踏むように足を動かした。
/155ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加