Prunus avium

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しばらくすると、いつの間にか娘はある建物内の坂を上っていた。その坂を懸命に走って登り切ると、さらに長い長い部屋が前方に伸びていた。娘はその部屋の床を力強く裸足の足裏で押しながら、前へ前へと走った。窓の外には相変わらず桜の枝とその花が見えた。 走りながらさらに向こうの景色を見てみると、桜林の向こう側に真っ黒な砂漠が見えた。――その刹那、彼女は足裏に大火傷を負って、走っていた活きよいそのままに無残に転がっていった。付近にあった机や椅子に何度も細い体をぶつけ、脛と肘はすれ、頬は切れて赤い血が垂れた。さらにその転がった反動で床は抜け落ち、地面に鈍い音と共に叩きつけられた。左足から落ちたせいだろう。左足の骨が何本か砕け、娘は全身を振るわせながら右足1本で立ち、ぐちゃぐちゃな方の足を引きずりながら、また前へと進みはじめた。 頬から垂れる血は襟にまで流れ落ちていた。その足取りは恐ろしく重かった。足取りが重かったのは何も転げ落ちたことだけが原因ではない。というのも散りゆく桜の花びらが四方八方から大量に降りかかってきて、息もしづらいほどとなっていたからだ。苦しい。そう思う間も桜の花びらは残酷にも娘に降り続けた。桜がここまで恐ろしいものとは。つい先程その素晴らしさを語っていた娘は、まだ桜のことをこれっぽっちも知らなかったことに気づかされて、失望と自分の無知を悟った。さらに追い打ちをかけるかの如く、空が灰色へと移り変わっていき、とうとう雨が降り始めた。
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