Prunus avium

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しかし娘がここまでかと諦めかけたその時、体が次第に軽くなっていくのを感じた。よく自分の体を見てみると、先程までこべりつき体全体に群がっていた桜の花びらが、雨によって洗い流されていくのが分かった。さらに周りを飛行していたピンクの花びらも、雨の弾丸に一枚一枚墜とされていった。またさらに、雨粒の中に一際青く色づく粒達が、頬の傷やぐちゃぐちゃになった左足などに降り注ぎ、みるみるうちに回復させていった。彼女の艶かしい皮膚は一段と厚く堅くなり、息遣いも安定し、再び軽快に走り始めた。そしてついに桜の林から抜け出した。 桜の林を抜けると今度は紫陽花畑にはいった。曇天模様の空の下で紫陽花達はそれぞれ青、紫、白と色づき、雨の水滴がさらにその色を鮮やかなものとしていた。娘はその紫陽花畑を駆けながらまた遠くの、今度は右斜め前を見てみると、ひとりの男性と数人の子供達がいるのが見えた。男性は紫陽花の花を指し、子供達に何か話していた。子供達はそれを聞いて驚いた表情をしたり手を挙げて質問したりしていた。――そういえば一見花のように見える部分は萼だったっけ。雨は止みそうになかった。しかし娘は笑顔だった。どこか心地よい雰囲気だった。 駆ける足はだんだんと軽くなっていった。色白い腿は力みを無くし、足の裏はまるで地面についていないように感じた。いや、実際に足は地面についていなかった。なぜなら娘の体は宙に浮いていたからだ。というのも娘の背中には透明で輝く羽が形成されていたからだ。その羽の主成分は雨であった。つまり雨が彼女を飛ばしたのだ。娘は羽と湿った空気に任せるままに、灰色の空へと浮き上がっていた。まるで飛行機が飛ぶ原理の如く。娘は飛んだ。娘は自然と飛んでいた。もうすでに雨雲の下辺りまで来ていた。しかし娘自身は気がつかなかった。自分はまだ地面を駆けているような感覚で飛んでいた。灰色の空は煌々と光り始めた。雨粒はその艶を一層表に出し、空の光によって宝石のように光り始めた。向こう側では虹の橋を架ける一団まで現れ始めた。
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